第278回 話題の山月記と歴史教育
1、虎になった男がトレンド入り
中島敦の『山月記』が話題になっています。
話題になった経緯はまとめサイトをご覧いただければと思いますが、
端的に言いますと、
日本の数学者である新井紀子氏がTwitterでプログラミングを公教育に導入することについて批判した際に、例として『山月記』を引き合いに出して炎上したということになろうかと思います。
教科書に載っているということで、多くの人が印象に残っており、ネタにも使いやすいため
(「その声は我が友、李徴子ではないか」というフレーズ)
火がついたのかと思われます。
作家としての中島敦の魅力については平山緑萌(@moegi_hira)さんがnoteにまとめていたのでそちらを参考になさってください。
私自身、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を地で行くような人間だったので思い入れは深い作品です。
2、公教育のあり方について
今日すこし整理したいのは本来の議論であったはずの公教育について。
プログラミング学習の公教育化については、何かを述べる力量も立場もないので、
考古学、歴史学教育について触れたいと思います。
たまたま、今日目を通していた雑誌
『考古学研究』65ー3に
村田秀石氏の「中学校歴史教科書に見る考古資料を生かした「主体的・対話的で深い学び」という小論が掲載されていました。
以下その内容に学びながら考察していきます。
2017年3月31日に新しい小中学校の学習指導要領が告知されました。
改革の柱の一つが表題にある「主体的・対話的で深い学び」
俗に言う「アクティブラーニング」というやつです。
この考え方はすでに現場では取り入れられ、子どもの授業参観などで実際に目にしてきました。
自分の頃と比べて、自ら学ぶ姿勢を育むことや対話を重視する取り組みに大きな時間が割かれているな、という印象です。
歴史学、考古学としても「暗記科目」として敬遠されることから脱却するチャンスでもあると言えます。
村田氏は実際に学び舎、東京書籍、帝国書院という三者の中学生の歴史教科書を比較しながら考察をされています。
特に印象深いのは学び舎の教科書。
名門灘中学校で採択されたことで話題になるとともに、慰安婦問題や南京事件の取り扱いでは思想的な問題もを多く惹起しました。
ここについては深入りしません。
村田氏のあげた本教科書の特徴は
①覚えるべき用語がゴシック体となるような従来の手法を撤廃。暗記スタイルからの脱脚
②これまであまり用いられていない資料を提示することで問いを引き出す
③博物館の活用方法やフィールドワークの重視
④世界史的な視点を失わないような工夫
と整理されています。
これを読んだだけではいいことづくめのように思えますが、欠点もあります。
まずは比較された三社の教科書の中ではダントツにページ数も多いですし、調査に重点を置くなど、教科書通りの指導をするには教員の負担も増大します。
この辺りが原因となってか採択率は低いままのようです。
3、歴史教育はどうあるべきか
教科書が学習者に与える影響はどう考えても大きいことでしょう。
しかし、出版社によってスタイルが大きく違うことはどれほど知られているでしょうか。
普通、学生たちはその出版社の教科書しか目にしないので、それが全てです。
戦前のように神話から始まる皇国史観であればそれに染まってしまいますし、逆に自虐史観で塗りつぶされた教科書であれば自国に誇りを持った大人になるのは難しいでしょう。
畿内中心の政治史ばかりでは地域の歴史に目を向けようとする気持ちが起こらないでしょうし、
教科書に書いてあることが全て正しいと思い込んでしまうと、自分で考えることにも繋がりません。
教科書の役割とはなんでしょうか。
冒頭の『山月記』のように、多くの人が知っている「教養」として学ばせることが大事なのでしょうか。
「歴史」という普遍的なものを題材に、例えば「多様性」を考えるためのものでしょうか。
薄っぺらい教訓をえることでしょうか。
まだ明確な答えは出せませんが、今何が教えられているのか、何が教えられていないかを知るということは全ての大人たちに必要なことではないでしょうか。
近現代史の評価しかり。
考古学会でも縄文時代以前の記述が少ないことをもっと問題視した方がいいのではないかという議論もありました。
正解はなくとも議論をしていくことで、右へ左へ揺り戻しながら高みを目指す、いわば螺旋階段のような発展が望ましいのではないかと個人的には思いますね。
読者の皆さんはどう思われますか?
社会に出て役に立たないことばっかりなんだからもっと内容を薄くして、考える力を重視すべきだ、とお考えでしょうか。
逆に今こそ共通の知識、教養として知っておくべきことを伝えるべきでしょうか。
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