第1155回 60年越しで光を当てられる末期古墳
1、読書記録237
今回ご紹介するのは
『鹿島沢古墳』八戸市内遺跡発掘調査報告書44
八戸市埋蔵文化財調査報告書第178集
この古墳は昭和33年に地権者が畑を耕していていた際に偶然発見され、相談を受けた地元の郷土史家が古墳と判断したために記録された遺跡です。
報道を受けた慶應義塾大学の江坂輝彌教授が発掘調査を行い概報が公表されましたが、正式な報告はなされないままでした。
その後の宅地造成に伴う採集品も含めて本報告を地元自治体が行ったものです。
最初の調査から実に60年越しの公表です。
2、何がでたのか
古墳は大学の調査時点で削平されていたものも含め、12基あったとされますが主体部、埋葬施設まで確認されたのは2号墳・7号墳のみでした。
ともに石敷の上に木炭の地層が確認され、木棺があったものと推定されています。
出土した土器の年代から7世紀前半のモノと考えられ、二円穴鐔付大刀、毛彫馬具、湖西産須恵器、錫製玉などが副葬品として挙げられています。
報告書掲載の福島大学の菊地芳朗教授の論考ではこの大刀は東日本太平洋側に広く分布し、近年では北部九州でも出土し30例以上が確認されているようです。
房総半島での出土事例と比較した結果、この大刀を副葬品とするのは地域の最上位層ではないものの、上位層の中でも武力を司る人物を想定できる、としています。さらには南方と北方の双方に太いパイプを持つ地域のリーダーとしての性格を付与しています。
3、よみがえる地域の姿
古墳時代、というと前方後円墳のイメージがあるかと思いますが、
時代が新しくなると外観よりも内部構造(棺を収める場所)や副葬品に力が入れられて行くようになるのですが
一方で、「古墳」に埋葬される人の階層も裾野が広がっていきます。
前方後円墳は仙台平野あたりが北限になりますが
それより北にも地域のリーダーを特別のお墓に埋葬しようとする文化が広がっています。
これらを「末期古墳」と呼んでいます。
7世紀というと大化の改新が645年ですから
関西では飛鳥時代となっている頃ですね。
仏教文化も広がり、やがて古墳よりも氏寺を飾ることが地域の有力者のトレンドになっていきます。
そんな時代の北東北の姿を、古い発掘調査の成果をしっかりと再整理して、
進展した現代の考古学的に位置付けすることで浮かび上がらせているということになるでしょうか。
例えば先に述べたように、この出土遺物が副葬品としてみつかる、というのはどういう意味あいがあるのか、ということは各地で発掘調査事例が蓄積されていくとより精細になってきます。
考古学が蓄積型の学問である、というのはこういうところですね。
行政は眼前の課題に追われて、古い調査の再検証などなかなか手が回らないものですが、よくぞここまでの成果を取りまとめたものだ、と感嘆してしまいますね。
県境を越えての移動が制限され、現地で実物を調査することが難しい昨今だからこそ、最新の調査成果を公表していくことが重要になってきますね。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。