第289回 お弁当のお供はどう変わったか
1、汽車土瓶の考古学
仙台市の長町駅東遺跡。現代では「あすと長町」として発展著しいこの地域は、大正14年から昭和59年まで旧国鉄の操車場として使われており、その規模は東北最大を誇っていました。
その関係で駅前再開発に伴う発掘調査では鉄道関係の出土遺物がまとまって出土しています(報告書参照)。
(発掘調査報告書より抜粋)
そもそも汽車土瓶とは何でしょうか。
明治から昭和30年代ころまで、駅弁のお供といえば陶器の入れ物に入ったお茶でした。これが汽車土瓶。
陶器の中でも当初はロクロ挽きであったものが、次第に型押しになって量産化していくようです。
陶器は重くて割れやすいので代わりに登場したのはポリ茶瓶。
しかし、中身が冷めやすく、風味もよくなかったためあまり評判は良くなかったようです。
昭和50〜60年代には缶入りのお茶が普及し、平成8年ころからようやくペットボトルのお茶が登場します。
ペットボトルがない時代なんてもはや想像できないですよね。
個人的な記憶ではぎりぎりポリ茶がまだ残っていたような気がします。
現在でも土瓶やポリ容器のお茶を購入できる店舗についてはこちらのサイトに情報がまとまっていました。
2、出土汽車土瓶からわかること
さて、長町駅東遺跡で出土した汽車土瓶は陶製26点、ガラス製1点、セットになるであろう湯呑は陶製51 点、ガラス製6点が確認されています。
陶製のものは泥漿鋳込み(でいしょういこみ)という製法で作られたもので、粘土と水を混合状態にしたものを、吸水性のある石膏方に流し込んで成形する方法です。
出土したものは瀬戸焼と会津本郷焼、そしてガラス製の三種に分かれます。
釉(うわぐすり)は灰白色・褐色・緑がかったものなどがありますが、形態や文様も含めて、瀬戸と会津本郷の区別がつかないほど似通っています。
どちらにも「鉄道局指定」「金五銭」と刻んであるので細かな規制が働いていたことがわかります。
瀬戸産のモノには「瀬戸古藤製」、会津本郷産のモノには「あいづ耕山」「会津ヒ山」などと刻んであるので産地がかろうじて分かります。
汽車土瓶には湯呑を兼ねているフタが付いていたようで、中にはしっかりととめられるようにらせん状の溝が刻んであるものもあるようです。
中には土瓶の外面に鉄道の文様が施されている資料もあり、子どもが喜ぶお土産にもなったのではないかと推測します。
(発掘調査報告書より抜粋。上段は実測図、中断下段は拓本)
ご丁寧に「空き瓶を窓の外に投げ捨てることは危険ですからこしかけの下にお置きくださるかまたはお持ちかえり下さい」と刻んだものもありますので、当時の乗車マナーのほどがうかがえます。
報告書によると汽車土瓶入りのお茶の販売価格が5銭であった時期は昭和5年から18(1930~43)とされているので、おもに昭和初期の資料群と理解されています。
3、近現代の考古学
さて、今回はかなり新しい、まだ記憶のある方もいるような時代を題材にしてみましたが、いかがだったでしょうか。
どうしても古い事が価値のあること、とみられがちですが、考古学は近現代の研究にも有効な学問だということは各地の戦跡遺跡の調査でも明らかにされています。
都合の悪いこと、当たり前のことは中々書き残されないものですが、考古学であれば廃棄されたモノから等しく当時の生活に迫ることができます。
近現代の資料でも丁寧な整理をすることで意外に面白い歴史が明らかになる好例としてシェアしたいと思います。
ぜひ感想などコメントいただけるとありがたいです。
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