第1341回 古代の駅家(うまや)解明に一歩
1、やっぱり現説はいいね
本日は久しぶりに遺跡発掘調査の現地説明会に行ってきました。
宮城県岩沼市の原遺跡。
遺跡の名前は平凡ですが、近年古代の「玉前駅家」ではないか、ということで注目を集めている遺跡です。
私も当然古代の街道や「駅家」という拠点施設に関する新たな知見を得られると思って訪れましたが、ことはそう簡単ではないようです。
2、大溝を発見
原遺跡は岩沼市南長谷、阿武隈川左岸に形成された自然堤防上に立地しています。
遺跡を縦断するような形でJR常磐線が通っていますし、
現代の幹線道路国道4号線と6号線が合流する地点に程近いので
古代でも交通の要衝だったことは容易に想像ができます。
平成28年度の第1次調査以降、岩沼市では継続的に「重要遺跡範囲内容確認調査」を行ってきたとのこと。
今回は第7次調査として1区とⅡ区合わせて392㎡の面積が発掘されました。
その成果として、検出面での上幅が2mに及ぶ大きな溝跡や真北方向を意識した掘立柱建物跡が見つかりました。
溝跡はこれまでの調査成果と合わせるとL字に曲がる区画溝と考えられ、その内側が役所的な土地利用がなされていた可能性を示唆しています。
溝の中からは土師器や須恵器、灰釉陶器などが出土し、新しい段階の溝が最終的に埋没したのが9世紀前半頃だと推定されています。
さて、ここで知りたいのは「玉前駅家」という施設がこの溝に区画されている中にあるのか、ということ。
もっというと、古代の幹線道路である「東山道」はどこを通って、
どんな道だったのか、ということ。
そもそも10世紀に書かれた『延喜式』に見える「玉前」の駅家や多賀城跡で出土した木簡に書かれた「玉前」という名称から
岩沼のこの周辺に駅家があったのではないか、と推定されていたわけです。
調査担当者にうかがうと、本来の「玉前」は原遺跡よりもう少し西側だ、ということもあり、
これまで見つかっている遺構群と駅家の関連を明らかにするのはこれから、とのこと。
原遺跡ではもっと古い6世紀代の遺物も見つかっており、
時期的な変遷もまだまだ今後の調査成果を持って整理していく必要がありそうです。
古代の幹線道路とその中継地点としての「駅家」の実態が明らかになるのはまだ先のようです。
3、ニュースタイル現説
久しぶりに現地説明会に参加しましたが、
決まった時間に説明を開始するよ!
という形ではなく、この日のこの時間帯はオープンにしているし、
担当職員もいるからいつでも見にきていいよ!
というスタイルのようでした。
遠方から慌てて間に合うように行かなくてはいけない、という焦りはありませんでしたので、それは良かったのですが、
最初はちょっと戸惑いました。
この調査の目的は何で、実際何が見つかって、今後の課題はこれで、
という手順を追った説明があった方がみるべきところが明確で楽だなぁ、
と思ったのが正直な感想でした。
専門の時代ではなくて、予備知識を頭にしっかり入れていかなかったからだ、と言われてしまえばそれまでですが。
何はともあれ古代の街道について解明されるのは楽しみですね。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。