第226回 古代の宿場町の姿が明らかに

1、遺跡の調査成果発表会の目玉

先日のnoteで岩沼市原遺跡の調査成果については、別項で、と書きました。

今日はこの話題を取り上げます。

この遺跡は宮城県南部を流れる阿武隈川のほとり、自然堤防と呼ばれる地形の上に形成されています。

なんでも担当者のKさんが別の目的(石碑の調査)で近くを通りかかった際に、偶然見つけたという新発見の遺跡だということ。

遺跡に登録されていなかったので、特に手続きを踏むことなく工事が進み、土器が出土しているのを見つけたとのことでしたが、この偶然がなければ歴史の闇に埋もれてしまったということ。ちょっと恐ろしくなりますね。

2、役所的な遺構配置

第1次調査は平成28年度に圃場整備という水田の改修工事に伴うもので、わずか2mの排水路予定地のみの発掘でしたが、1辺が1mの幅を持つ柱穴で構成される大規模な建物跡や円面硯が出土するなど大きな成果があがりました。

29年度に実施された第2次調査でも同様に大型の柱穴が見つかるとともに、建物以前に材木塀があったことも確認されました。

そして今年度行われた第3次調査でようやく全貌が明らかになってきました。

報告によるとこの遺跡で生活が営まれたのは古墳時代の後期から平安時代にかけてて、大きくわて3時期に分かれるようです。

そのうち第2期とされたのは8世紀前半から後半ころの建物群は、方角を強く意識した並びになっており、これは当時の行政、つまり地域を治める役所に関する遺跡である可能性が高いということになります。

3、交通の要衝は現代でも

現在もこの遺跡のすぐ北側でJR東北本線と常磐線が合流しており、古代においても東山道が通るルートだったとされています。

当時の主要街道では荷物運搬や情報伝達の弁を測るため、30里(16km)ごとに駅家(うまや)が用意され、馬を乗り継ぐことができたとされています。

遺跡の時期より、少し後の10世紀に制定された法律文書である『延喜式』には「玉前」という駅家が登場し、これは岩沼市西南部に今も残る玉崎(たまさき)に通じるものであったと考えられています。

つまりこの原遺跡は、「玉前駅家」に関連する遺跡である可能性が非常に高まってきているということになります。

古代の街道と宿場町の様子がが1200年の時を超えて明らかになってきたということなのです。

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