第351回 疾走する駒を描いた焼き物
1、諦めない職人の姿
たまたま地元紙を見ていたら大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)のニュースがありました。
大堀相馬焼は福島県浪江町の特産品の焼き物です。
地名を聞いてピンと来たかもしれませんが、東日本大震災で福島第一原発が事故を起こしたため避難区域になってしまった場所でもあります。
そんな中で、それぞれの場所で伝統を守り続けている職人の姿には考えされられますね。
そこで今日はこの焼き物の歴史をちょっと紹介したいと思います。
主な情報源は
大堀相馬焼協同組合 HP松永陶器店 HP
愛知県陶磁美術館 学芸員のページ
『増補 やきもの事典』 2000 平凡社
になりますので、興味を持っていただけた方はぜひ確認してみてください。
2、大堀相馬焼の歩み
大堀相馬焼は福島県浪江町大堀の半谷休閑の使用人であった左馬が1690年頃に開業、相馬野馬追にちなんだ駒の絵を描いて評判になったといいます。
相馬中村藩は陶磁器を特産物にしようと保護したため、江戸時代の末期には城下に100軒近い窯元があったとされています。
その質の高さから大消費地である江戸でも京焼や信楽焼ともシェアを競い合うほどだったとも。
日用品(徳利や土瓶など)が主な生産物でしたが、藩の後ろ盾を失った明治維新後に一時衰退してしまいます。
しかし、1873年頃に松永政太という人物がが鮫焼土瓶を考案し、アメリカへ大量に輸出されるほど人気商品にな ったといいます。
鮫焼とは釉の表面が鮫肌のようにざらざらしていることを特徴としています。本来は欠点でしたが、逆用して装飾効果とみなして売り出したのでしょう。
原料にいわき市の勿来産の陶石を用いたので勿来焼・勿来土瓶などとも 呼ばれたそうです。
青罅焼(あおひびやき)という技法も明治以降の大堀相馬の特徴としてしられていました。
写真は大堀相馬焼共同組合HPより転載
右側が断面で、中に空洞があることがわかります。
罅焼とは素地(粘土)と釉(うわぐすり)の収縮率が異なることで起こる表面にひびを文様というかデザインとして活かすもののこと。
このひびは別に貫入(かんにゅう)とも呼ばれたりします。
現在の大堀相馬では出来あがった製品の貫入をあえて際立出せるため、墨汁を擦り込んでいるようです。
さらに1989年には坂本熊次郎によって二重焼きという技法が考案されました。
これによって熱い飲み物を入れても持てるという他に例を見ないメリットもあるようです。
3、考古学的な成果から
1998年にまとめられた関根達人の研究
「東北地方近世窯業生産に関する基礎的研究-大堀相馬焼の生産と流通を中心に-」
によると、江戸時代に主要な食器が漆器から陶磁器に移り変わっていきますが、東北地方では肥前磁器よりも大堀相馬焼の果たした役割が大きいことが指摘されています。
城や館跡では17世紀の終わりころ、農村部でも19世紀までには変化していることが分かったそうです。
たしかに18世紀末から19世紀前半ころの陶磁器は先日ご紹介した下野郷館跡でも多量に出土しています。
九州の肥前から運んでくるリスクやコストを考えると、地元に近い窯跡からの製品の役割が大きかったことも頷けます。
ミヤギでも江戸時代の遺跡から多くの大堀相馬焼が出土しています。
江戸時代の集落は現代も同じ場所に人が住んでいることが多いので遺跡として保護されているところは少ないですが、城館と言われるところでは数多くの陶磁器が出土していますので、各地の窯跡から様々な製品が流通してきていることを興味深く観察していたところです。
中世と比べてバリエーションも増えて資料数も多いので、全然勉強が追いついていませんが、いずれまた県内の陶磁器の話もしたいと思います。
ぜひご意見ご感想お寄せくださいね。
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