第1156回 学史的に有名なのにわからないことってよくある
1、読書記録238
本日ご紹介するのはこちら。
白河市『天王山遺跡』白河市埋蔵文化財調査報告書 第84集
福島県白河市では平成11年の舟田中道遺跡の保存を契機として市内の重要遺跡について国指定を目指して継続的に取り組んできたとのこと。
古代白川郡関連の舟田中道遺跡、下総塚古墳、谷地久保古墳、借宿廃寺跡
野地久保古墳は東北地方に類例のない上円下方墳
小峰城跡は奥州の玄関口という要衝に位置する城
白川城跡は中世陸奥南部地域における鎌倉武士の政治的発展とその変容を知る上で重要
と次々と市内の重要遺跡を国指定にして整備活用を図っているようです。
これらに続いて学史上著名な「天王山式土器」の標識遺跡として平成28年度から五か年計画で調査を実施する、とのこと。
2、60年越しの再評価
天王山遺跡は昭和25年に開墾作業に伴って発見され、東北地方で戦後初となる発掘調査が行われました。
炭化米を伴う焼土遺構を確認したものの、集落としては面積が狭く、飲料水を得るには不便な丘陵の上であることから、祭祀遺構と判断されました。
その後、明治大学の杉原壮介教授は集落遺跡との見解を示し、東北大学伊藤信雄教授により弥生時代中期の標識である「天王山式土器」と名付けられました。
遺跡に対してはその後調査されることもなく、耕作も行われなくなり雑木林となったようです。
平成の調査は昭和の調査の再確認と遺跡の範囲性格を特定することを目的に行われました。
結果として竪穴建物跡や土坑などが複数確認され、重複もしていたため、一定程度の期間使われた集落跡であることが確認されました。
1951年の報告書は全文掲載され、巻末に考察を寄稿した石川日出志に
遺跡・遺構・遺物の図面の精度の高さは驚くほどである
と評されています。
また石川氏の論考では学史上で土器編年のなかで天王山遺跡から出土した土器がどのように位置づけられてきたのか、と集落遺跡としての位置づけ、標高差が70~80mもある独立丘陵頂部に営まれたこのと解釈についても新潟県域での調査例と比較しての見解が述べられています。
3、白河の文化?
本筋とは全く関係ありませんが、当初の報告書の中で開墾で出てきたカメの破片を当初は集落の「公徳箱」に投げ捨てた、とあります。
聞きなれない言葉なので調べてみると、大正から昭和の初めころに道路に落ちているガラスや釘の破片を見つけた人が入れるもので、子どもなんかが面白がって入れていたもののようでした。
青空文庫で見かけた大町桂月の随筆『白河の関』には以下の記述があります。
『公徳箱』と記せる箱を見受く。曾て上州を旅せし時、『危險物入箱』と記せる箱を見て、蓋を開きしに、中には陶器、硝子、鐵葉などの破片が入りたりき。これもそれと同じものなるべしとて、中を檢せしに、果して然りき。名は何にても好しと云はば、それまでなるが、『危險物入箱』といふよりも、『公徳箱』と云ふ方が、氣が利きて、雅味あり、教訓の意もこもれり。
他の地域でも似たようなものがある、という情報をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひご教授ください。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。