第73回中世と近世

1、導入

公民館講座の受講生の方から、

私の祖先は長南氏なんです。

というお話を受けたので

今日はそこから連想したコトを整理してみます。

2、松島に流れ着いた戦国武将

長南氏とは千葉氏の一族とばかり思っていましたが、元を辿れば菅原道真公につながる家のようです(全国長南会WEBより)。

長南氏と幾重にも渡った婚姻関係を結んでいた千葉氏や戦国時代に主君であった里見氏は房総半島の武将なので、水軍の力を重視していました。

実際に里見氏がお取り潰しになった後、長南和泉守という武将が船で松島湾まで逃れてきて、現在の塩釜市寒風沢島に隠れ住んだと伝えられています。

冒頭の町民の方はこの長南和泉守の子孫だそうです。

千葉県の銚子沖は船の難所と言われていますが、そこを乗り越えてきたのでしょうか。

江戸時代になると仙台藩の米が江戸に大量に輸出されているところを見るとこの時代はその難所を乗り越える造船、操船技術が発達していたのかもしれません。

そういえば我らが瑞巌寺の本堂建築に伴って伊達政宗公は紀州熊野からヒノキ材を運ばせたとされています。実際に今回の修理で分析した結果も、伝承通りでした。

この時木材を筏にして運んできた水夫たちはそのまま松島に集住し、御座船の船頭となったと言い伝えられ、水主町(かこまち)と呼ばれる地域も残っています。

いずれにしても戦国武将によって組織された水軍が流通の主体となっていたのでしょう。

3、中世と近世の違い

もう時代を少し遡ること100年ほど。品川湊に鈴木道胤という有徳人(うとくにん。豪商)がいて、太平洋交通で栄えていたとされます。

鈴木という苗字から分かるように、現在の和歌山県熊野出身で、各地に広がる熊野信仰のネットワークを活用して商圏を広げていたと考えられています。

宮城にも名取というところに古くから熊野信仰があり、水運を利用した交流が行われていたことを示しています。

ただ、この時には銚子沖を経由せず、

今よりも広かった霞ヶ浦周辺(当時は香取海と呼ばれていました)を経由して外洋に出る時間をかなり少なくしていました。

学生時代の卒業論文で陶磁器の出土状況からこのあたりのことを考えていたことを思い出しました。

それはさておき、室町時代は商人や熊野などの宗教勢力が交易の担い手だったのに対し、

戦国時代になると大名の力が強くなり、水軍として組織されることで自由を失っていくような印象を受けます。

戦国時代ですから争いは少なくなったわけではありませんが、世の中が新たな秩序に向かって固まり始めていたのでしょう。いわゆる近世です。

それに対して鎌倉時代後半から室町時代(いわゆる中世)には秩序がなかなか長続きせず、混沌が覆っているような雰囲気がありますが、一方で自由に自分の才覚でのし上がることができる、そんな時代であったように思います。

中世の方が現代に近く見えませんか。

個人的にも中世の方が個性的な人物が多いと思いますし、文物の交流もダイナミックで好きです。

最後は結構な飛躍があるかもしれませんが、自分の好きなモノやコトを紹介して魅力を知ってもらうのが本noteの目的です。

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