第188回 思い立ったのか呼ばれたのか
1、つわものどもが夢の跡
昨日夜更かししたのに、朝起きて
あまりに天気が良かったので
考えていた予定を全てキャンセルして遠出することにしました。
行き先は岩手県平泉町。
中尊寺金色堂を子ども達に見せたかったのです。
隣県にありつつ、行ったのは10年ぶりくらい。
讃衡蔵という宝物館のような施設が整備され、小・中学性向けチラシも用意されるなど、時代を感じました。
螺鈿という南島産の夜光貝を使う装飾技法が金色堂には特徴的に使われているのですが、その製作技法についての説明もありました。
2、時代を超えて受け継がれた黄金
中尊寺は奥州藤原清衡が建立した多宝寺がもとになった寺院で、
清衡自身の廟堂として天治元年(1124)に建てられた金色堂がその豪華絢爛さで知られています。
結局二代基衡と三代秀衡とともにミイラとなって安置され、源頼朝によって滅ぼされた四代泰衡の首も納められています。
その頼朝もこのお寺を庇護していましたが、のちに火災で金色堂以外の堂宇は焼失。
江戸時代には平泉町も仙台藩の領内でしたので、伊達政宗によって庇護されていましたが、
「おくのほそ道」を著した松尾芭蕉が、「夢の跡」と評しているようにあまり隆盛を誇っているような様子ではなさそうです。
そして昭和37〜43年に解体修理が行われ、当時の姿を取り戻したとのでした。
3、為政者が見ていた光景
金色堂を建立した藤原清衡という人物は、非常に波乱万丈な人生を送ってきました。
彼の父、藤原経清は多賀城の役人であったとされますが、地元の豪族安倍氏と清原氏の抗争で命を落とします。
彼の母は安倍氏の出身でしたが、ライバルの清原氏の当主と再婚します。
また、成人すると兄弟と血みどろの抗争を繰り広げ、妻子を失うことになります。
戦いの果てに手にれた奥六郡(現在の岩手県)に、京都にもないような大寺院が築かれ、それが中尊寺金色堂となります。
その心中を推し量って、
近親者だけでなく、命を落とした多くの人々の供養と、今生きる人の平穏を願ってのこと、
と感じてしまうのは現代的な感覚でしょうか。
平成23年6月26日には、
平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―
の構成資産の一つとして世界遺産に登録されました。
いつの時代も後世に遺されたものは
人の意志によって受け継がれてきたものでもあります。
建立した清衡の意志、庇護してきた歴代の為政者たち、守り伝えてきた地域の想い。
子どもたちも何か感じてくれたでしょうか。
そんなことを考えながら、いい文化の日になったと思いました。
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