「花蓮の夏」よみがえる青春の色
シネマート心斎橋で台湾映画「花蓮の夏」を観た。
「ブエノスアイレス」を彷彿させる色彩で、どの場面もポストカードのよう。名作との噂は本当だった。
あぶなっかしくも平和で幸せだったふたりの関係が、もうひとりの出現によってべつのものに変わってしまう。
いわゆる三角関係だが、ヘテロセクシュアルの定型パターンではなく、後ろめたさや不安や疎外感といった感情の強さが想像を超えてくる。
はじめは彼女を好きだと思った。でもそうじゃないと気づいてしまった。
でも本当に好きなひとにはこの気持ちを伝えられない。
彼から彼女と付き合ってもいいかと聞かれた。いいよと答えた。
ひとりになってへたりこみ、シャツの襟をゆるめ、胸をつかんで喘ぐ。気持ちを抑えすぎて息ができない。観ているこっちまで苦しくなる。
その感覚に、ある映画を思い出していた。
マイケル・カニンガム原作の「この世の果ての家」(日本での公開名は「イノセント・ラブ」だったらしい。なんでや)。
大人になるまでの時期をみずみずしく切り取った「花蓮の夏」と違って、その先の先まで描かれる。
このトレイラーは人たらしの鬼ボビーを中心にしているが、本編はメガネっ子ジョナサンの気持ちを繊細に追った、静かな作品だ。
ジョナサンのママ、明るいボビー、肝っ玉母さん的なクレアが、彼をやさしく取り巻く。こちらも負けずに切なくて、大好きな映画。
マイケル・カニンガムの原作小説は、映画よりもさらに静かだったような気がする。ジョナサンはある運命から逃れられず、最後まで苦しむ。そういう時代だったのだな。
「花蓮の夏」の三人には、ラストシーンの先に明るい未来が待っていたことを願って。