女であるだけで
ある日、夫を誤って殺した。
14歳で身売りされ、突然始まった夫との貧しい生活。暴力。先住民だからという差別。
女性である、その事実が不条理な扱いを受ける根拠で、それは民族性とも結びつく。そして、貧困とも。
「あたしたちを苦しめるのが男だということはどうでもいい。あたしたちが苦しめられる運命の女だということが問題だ。」
タイトル通り、フェミニズムの要素を多く含む作品で。
主人公のオノリーナは、ツォツィル族の貧しい先住民で,マヤ語しか話せないが、留置所でスペイン語の読み書きを学び、自分の言葉で、自分の置かれた状況を理解していく。そして、状況を言語化できるようになっていくという過程も書かれていた。
作者は、マヤ語先住民族女性作家として、活躍しているソル・ケー・モオ。
この本は、理不尽で困難で、
不条理な世界に対する、ユカタン・マヤ語で書かれた告発。
どうして自分とは違う価値観、ルーツ、背景を持つものに対してなかなか近づくことができないのか。
そして、自分が理解できなかったのではなくしなかった、価値観を持つ人たちを馬鹿にし、軽蔑し、自分たちより劣ったものとしてみるのはなぜなのか。
男女間のなかで、女である私は、社会の中でマジョリティではない。
明らかにマイノリティだ。
でも、それ以外のことで、私はどちら側に所属するのだろうか。
大部分で、マジョリティ、特権を持つ側に位置する。
異性に対して、恋愛感情、性的な感情を抱き、何一つ困ることなく、したいと思った勉強を専攻し、欲しいと思った本を買ってもらっている。
オンライン授業でも、なにも困ることなく、もともと持っていたパソコンでズームを使って授業を受けている。何一つ不自由なく学生生活を送っている。
マイノリティは、マジョリティより、問題に向き合わなくてはいけない。
だって。向き合わないと生きていけない。生活していけない。障害物は目の前にあるから。
教室の前の教卓に、一つ箱を置いて、教室いっぱいに座っている生徒全員にボールを渡し、その箱の中に入れるように指示する。
すると、箱に近い、前の席の生徒がいれるのと後ろの生徒がいれるのは難しさが全然違う。
後ろの生徒が、『距離が遠い!不公平だ!』と叫ぶまで、前の席に座っている生徒は気が付かない。声が上がって、その現象が目に入るだけ。
それを公平にしようと動く人は少ない。
なぜか。前の席に座っている人は特権を持っているのだ。
たまたま、前のほうに座ってただけ。という特権が。
だから、特権というのは、気づかない。特権を持っていることには気づかない。当たり前だから。生まれてからずっとそばにあったから。それが特権だとは微塵も思わない。でも、その特権を手にしてない人もいる。
だからこそ、いまは、『他人の靴を履いてみること。』それが大事なのだ。
その人の立場になって、考えてみること。empathyだ。
わたしたちに必要なのは、sympathy じゃなくて、empathyだ。
sympathyは問題を抱えたり自分と同じ意見を持つ人々に対して抱く感情で、努力しなくてもできる。
sympathyは自分とは違う意見、信念を持つ人が何を考えているのかを想像する力。
empathyを大事に生きていきたい。できないことも多いだろうけど、他人の立場になんてなれないかもしれないけど。その姿勢をみんなが持つことで、確実に変わる。そう言い切りたい。
女は女に生まれるだけで、男が得られるのと同じ機会は得られないんです。貧しい女性の場合は特にそうです。先住民に至っては、どの先住民でも同じですがなおさらです。
女は、文化も法も男性を優遇する社会の中にあって、スティグマを背負わされているのです。