どうしても4番を付けたかった、3番の私
こんにちは!学生インターンのぴんさんです。
私は、小中高とバレーボール部でした。ちなみに今もサークルで週に1回くらいバレーしています(^^)/。
特に高校生の時は、毎日毎日部活していました。平日は夜6時まで練習。長いときには7時まで。週末は練習試合で、多治見に行ったり、関に行ったり、大垣に行ったり。本当に大変でしたが、とても楽しい日々でした。
そんな私はレフト、スパイカーのポジションでした。『ハイキュー!!』でいうと、田中龍之介のポジションです。
『ハイキュー!!』を知っている人なら分かると思うのですが、私は東峰旭さんのポジションではなく、田中龍之介のポジションなのです。つまり、エース対角ということ。もっと簡単に言うと、2番目のエースだったのです。
私は高校生の時、エースにはなれませんでした。
同じチームメイトにすっごく強いスパイクを打てる子がいたからです。その子の打つスパイクは本当に、強くて、重くて、よく決まりました。また、その子はレシーブもトスも上手で、ゲームを冷静に考えられる素晴らしいプレーヤーでした。私はその子に憧れていましたし、その子のようになりたいと思って、当時、一生懸命練習していました。
その子は、先輩がいるときから、エースポジションを任されていました。
そして、私たちの代になったとき、その子は「4」番のユニホームをもらいました。
これもまた、『ハイキュー!!』の音駒高校を考えてもらうと分かりやすいのですが、私の高校は音駒高校と同じで、エースナンバーが4番だったんですね。キャプテンが1番、セッターが2番、という感じで、特別な役割には特別な番号があったのです。
私は3番でした。私たちの代の間、ずっと3番でした。
でも、私は「4」番が付けたかったのです。
高校1年生の時には、私はまったくその子に敵わないと思っていました。
でも、一生懸命練習して、強いスパイクが打てるようになり、カットもトスも正確に、サーブもジャンプサーブに変えました。
誰よりも声を出して、部活に専念して、毎日毎日努力しました。
段々と自分がチームの中で任される機会も多くなったと感じていました。
だから、その内「4」番がもらえるかもしれないと思っていました。
それでも、大きな大会ごとに渡されるユニホームはずっと3番でした。
最後の大会まで、ずっと3番でした。
私はエースになれませんでした。
今はもう、部活という形ではバレーをしていないので、必死に練習することも、ユニホームを着ることもなくなりました。男女混じって、笑いながらやるバレーも楽しいものです。
それでも、あの「4」番が欲しくて、みんなで県ベスト8を目指して練習し続けた日々に勝るバレーはないと言えるほど、私の部活生活は本当に楽しかったのです。
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