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慈雨が降り注ぐ
バガヴァッド・ギーター本読み会16回目②
zoomを使って、毎週火曜日の8:30〜9:00に行っています。
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第1回が始まったのは2023年9/14でした。
現在は36回目が終わり、五章の行為の放棄の途中です。
ここには私が本読み会の中で印象的だったところを書き残しています。共感いただけたらとっても嬉しいです♪
第三章 無私の行為
1.死神との会話
護摩供養のことが出てきます。
護摩供養って何のためなのでしょう。
火を焚いて供物を捧げて祈願する。
私はそんなイメージです。
みなさんはどうですか?
護摩供養においては、供物を火に投じ火がそれを焼き尽くすのと同じ様に、感覚器官の働きと欲望とを焼き尽くし、自分自身が清浄にして潔白になるように神様に祈る。
通常、護摩供養は世俗的な利益と、死後の安らぎを求めて、世俗的な人々によって行われている
この護摩供養のことで思い出されるのはインド哲学の物語です。
死神とナチケータス少年のお話です。
この少年の父親が護摩供養の供物として、自分にとって価値のないものを神様の供物として捧げているのを、(断捨離じゃないんだからね😅)
少年は神様への捧げ物としてそぐわない、護摩供養とならないと反抗しました。
少年は父親を試すかのように反抗し、自分を供物として捧げることを父親に言い、父親は息子であるナチケータス少年を死神に供物として捧げたのです。(売り言葉に書い言葉です🫢)
ナチケータスは、死神の家に行くと留守でした。(そんなことあるのー笑😆)
死神の帰りを待つ間に死神の家族は彼をもてなそうとしましたが、もてなしも断り家の前で待ちました。
死神が帰ってきた時に、長く待たせたことを申し訳なく思い、3つの願いを叶える約束を少年としました。
一つ目は、父親と仲直り。
二つ目は、火祭(護摩供養)の知識。
三つ目は、魂は死んだらどうなるか。
ここで面白いのは、死神が三つ目の願いを教えたがらないこと。
そして、ナチケータス少年に財産や長寿を与えるというが、少年は頑なに断り、死神が折れて願いを叶えることに。笑
相手が承諾しないと死神とはいえ、やはり神様なので、そこは無理強いできないのね…。あと、ナチケータス少年は賢かった。普通だと財産と健康長寿を求める人生を選びそうです。
死神は三つ目の願いについて、
このように答えました。
魂は生まれるものでもなければ、体が死んだときに死ぬものでもない。永遠不滅なのだ。体の中に収まっていても実体はない。あまねく存在している。魂を悟ることで、悟ったものは、深い苦悩を超越した状態に達する。『カタ・ウパニシャッド』
死んでも死なない永遠不滅の魂である私達は何のために護摩供養があるのでしょうか。
2.祓いの文化
日本では、祓いの文化がありますよね。
ちょうど六月末には、神社で夏越しの祓いで半年間の罪穢れを祓う茅の輪くぐりがあります。
人間に欲望があるのは常。無意識に溜まった穢れを祓い、新たなカルマを作らないような工夫なのだと思います。
無心で行為することを、カルマヨガといいます。カルマヨガが真にできると、新たなカルマを作らないと言われています。
しかし欲望がガソリンとなって行動にうつるというのは普通にあることです。(自己嫌悪にならないでね)
ちなみに、欲望は火のエネルギー、ラジャス(活動)のエネルギーです。過剰となると、対立や怒りとなりますが、上手く使えば有効であると、私は思います。
3.自分自身が捧げ物となる
三章11節
護摩供養により神々を繁栄させよ。その神々も(慈雨やその他の望ましい恵みを持って)汝らを繁栄させることを祈ってくれる。斯くの如く、互いに互いを繁栄させつつ、汝らは至高善(シュレヤ)に至るのである。
慈雨という言葉の表現いいですね。
恵みの雨。慈愛の雨。
神様と人間も役割の違いで平等の関係に感じられます。
私達の行為が、見えない存在に喜ばれ、
見えない存在が、私たちの幸せを願う。
相互に作用する関係のようです。
慈雨は、水そのものだけではなく、全てに慈雨が浸透している。あらゆるもの全てではないでしょうか。
小さい頃は神様がいて、不思議に夢を叶えてくれた
仕事も日々の暮らしも、全ての行為が神様への供物である、カルマヨガでご神事となった時に、あなたに慈雨が降り注がれるのではないでしょうか。
無私の行為は最高に報われる、というのはこういうことなのですね。
由紀子