![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/141946484/rectangle_large_type_2_35872921827364a59fd61482ab9cced7.jpg?width=1200)
本質で生きる
バガヴァッド・ギーター第7回目本読み会
zoomを使って、毎週火曜日の8:30〜9:00に行っています。
本は“科学で解くバガヴァッド・ギーター スワミ・ヴィラジェシュワラ大師 著 、岡本直 訳、木村慧心 監修”を使っています。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/141941796/picture_pc_0638889a495bbd71cd80d71c1e41e2fe.png?width=1200)
今現在は32回目が終わり、第四章の途中です。インスタに記していた過去記録を元に振り返っています^ ^
第二章 サーンキヤ・ヨーガ
《サーンキヤ学派》
世界の根源として、精神原理であるプルシャ(神我、自己)と物質原理であるプラクリティ(自性、原質)という、2つの究極的実体原理を想定する。厳密な二元論であり、世界はプルシャの観照を契機に、プラクリティから展開して生じると考えた
五大元素(地水火風空)から
受肉し生まれ、
また地水火風空へと帰る。
たとえば、木は木材になり、加工されてイスになり、イスは壊れて薪になり、薪は燃やされ炭や煙となって、土に返り空に上ってまた雨となり地上へ。。。
二章17節
この世界を遍く満たすものは不滅であると知れ。この不滅なるものを滅ぼすことは誰にもできないのだ。
10歳の時に父が亡くなった時は、目の前からいなくなって寂しかった。。。涙
でもヨガの知恵に出会い、なんとなくこういうことじゃないかな、と思えました。
あゝ父はいなくなってないんだな、自然の中に溶け込み、いつもいるんだな。。。
と、ふと思い出す時にそう思います。
《わかる》というのは、
証明できなくても、
腹で感じて、腑に落ちて、
《わかる》んです。
真我は生まれず死なず
二章20節
真我は決して生まれず、死ぬこともない。真我は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存在する。肉体は殺されても、真我は殺されることはない。
祝詞教室で、私の産土神を教えていただきました。
この世に肉体と魂を結びつけて、送り出してくれた存在を産土神と教えていただきました。
私の産土神は方違神社の三筒男大神様の中の中筒男神でした。
知らない神さまと思いましたが、幼少期に過ごした記憶から、住吉大社の思い出がよみがえりました。
住吉大社の神様も三筒男大神様だと分かったからです。
お守りいただいてたんだ!
と腑に落ちた《わかる》考えです。
真我は不生不滅。
不生不滅の真の我を感じ《わかる》と、安心と幸せが溢れました。
本質で生きる
無智さは恐怖の原因となり、恐怖は自己防衛し、他人を攻撃する原因となる。人は無智さが消失すると、真の知恵がわかり始めてくる。
私の魂を五大元素(地水火風空)へと結び受肉させてくれた存在がある。
私の魂は生まれる前からあり、また肉体は五大元素へと戻って、魂はまた新たな肉体を獲得することもできる。
無智さとは、私とは肉体であるという考えと価値観のこと。
ふつうはそうだと思います。
しかし、それは本当なのだろうか?
見えない心が動かす見える肉体。
「心が動かされた」と、言いますね。
見えない心を動かす、さらに見えない微細なものがあっても不思議ではないと思います。
私とは意識である。
それを忘れて生きることで、さまざまな苦楽の体験をしているのだと思います。
そして感覚器官の様々な対象物の中に行き渡っている普遍的な永遠の真我が見えてくるのである。
本質で生きるとは、
内にも外にも同じものを見る、
統合された意識なのですね。