命の薄いお前たちは今すぐ映画『サユリ』を観に行け。
お金を払ってまで怖い思いをするのが嫌なので、ホラー映画を劇場まで観に行くことはない。何ならホラー映画の予告編が始まると耳を塞ぐし、エイリアン新作の監督が『ドント・ブリーズ』のフェデ・アルバレスと知って、映画ファンとしてあるまじき「配信待ち」の構えを取っている。
にもかかわらず、『サユリ』を観にわざわざ劇場に足を運んだのは、おれが『スペル』と『デンデラ』をこよなく愛しており、この映画もその系譜に連なる一作のはず、という予感に従ってのことだった。その予感は的中し、歓喜に打ち震え、笑顔でスクリーンを後にした。足の震えは治まり、心からは恐怖が消えていた。『サユリ』は、おれのようなホラー弱者にも優しい、人間讃歌の大傑作であったのだ。
とはいえ、『サユリ』の面白さのポイントを、原作未読の方々に説明するのは、困難を極める。一番の大ネタであるそれは、出来ることなら知らない方が楽しめるのかもしれない。だが、『スペル』と『デンデラ』のタイトルを挙げたことが、すでにネタバレかもしれない。よってここでは、いっそネタバレをある程度解禁した上で、それでも『サユリ』を観に行くべき理由を書いていきたい。
夢のマイホームを手に入れた神木一家。父は一軒家を購入したことで家族を守る決心を新たにし、長女の径子は初めての自室に喜び、長男の則雄と弟の俊も、部屋のバルコニーからの景色に開放感を覚える。ところが、俊と、祖母の春枝だけが、家の中にある不穏な気配を感じ取っていた。
そんな幸せだった神木家の日常は、一気に崩壊する。何者かに操られたような径子が俊に暴力を振るい、父・昭雄と、祖父の章造が奇っ怪な死を遂げた。則雄は、霊感のある同級生の住田に家を出るよう勧められるが、子どもである則雄にはどうすることも出来ず、最悪の事態が彼を襲う。
押切蓮介の同名漫画を原作とする本作は、開始直後からとてつもなく厭な雰囲気を纏っている。部屋に引きこもり、家族から心を閉ざしている、肥満の少女。彼女の怒りがついに家族に凄惨な暴力を加えたところで、彼女こそが「サユリ」であると明かされる。そして十年後、そんな曰く付きの家に越してきてしまったのが、不運な神木一家である。
舞台となる家そのものがおぞましく、一家団欒のリビングのすぐ近くにサユリが暮らしていた部屋があり、登場人物が行動する度にどうしても視界にその部屋の扉が映るようになっている。見て見ぬふりの出来ない位置にあるのに、それが何なのかを登場人物のほとんどが認知できない。絵に書いたようなアットホームの神木一家も、ついに呪いの餌食となっていく。
サユリがついに生者を襲い始めると、ショックシーンの連続だ。R15+指定ということもあり、わりと容赦のない恐怖が、神木家と観客に叩きつけられる。個人的には、ホラー映画に精通していないこともあり「流石に末っ子には酷いことはしないだろう」とたかを括っていたところに、それをあざ笑うかのようにとんでもないことが起こり、ここで劇場を出たくなってしまった。『サユリ』は、マジで怖いホラー映画だった。
サユリに追い詰められた則雄を救ったのは、春枝ばあちゃんだった。認知症気味で、夫(則雄の祖父)の死を認識できていなかったはずの春枝は、真っ直ぐに立って歩き、言葉もしっかりしている。一体何事か!?全てを飲み込めず混乱する則雄に、春枝は叫んだ。
「いいか。ワシら二人で、さっきのアレを、地獄送りにしてやるんじゃ!復讐じゃ!!!!」
この映画は、前半と後半で、全く違う顔を見せるのだ。前半が怨霊の住む家に越してきた一家がスプラッタに死んでいくホラー映画なら、後半はババァ覚醒心霊太極拳ベスト・キッド映画へと変貌してしまう。ババァ……いや、春枝さん曰く、心霊に対抗する一番の武器は生きる力、「生命力」である。故に、サユリに負けない心と身体を養うために“命を濃くする”ことこそが、この理不尽に対する最大の反撃になると、則雄に説くのである。
そう、心霊とは、それを怖いと思うから怖いのだ。日常の不安や恐怖に心が負け、サユリに付け入られてしまった神木一家の犠牲者の皆々様は、「怖い映画は怖いから行きたくないでち」などと甘ったれたことを言っているおれそのものである。だが、よくよく考えれば、死者より生者の方が強いのが当たり前であり、元より怖れる必要などなかったのである。その証拠に、暗い劇場で耳を塞ぎガタガタ震えていたおれの背筋は真っ直ぐと伸び、一心不乱に銀幕を見つめていた。ババァが、おれの心から怖れを取り去った。
何もこれは心霊に限った話ではなく、『サユリ』はこの世界が理不尽なものであることを素直に認めつつ、それに対しては怒っていい、反抗してもよい、ということを伝えようとしている。死者からの一方的な暴力に対し、命乞いをするのは弱者の行いであり、生きる意地を持って対抗するのが真の生命力であると、真っ向からのストレートを放ってくる。本作プロデューサーの田坂氏曰く、本作はコロナ期に感じた怒りが元になっており、理不尽に抗う人間の物語としての普遍性を訴えようとしていることがわかる。
生きる力の発露として、春枝は則雄に家を綺麗にするよう言い、よく食べよく動き、よく寝ることを言いつける。そして身辺が落ち着いたら、学校に通い奪われた日常を取り戻す。命を濃くする、とは何も特別なことではなく、日々を懸命に生きるための力を養い、環境を整えることである。忙しさを言い訳に蔑ろにしがちなそれを、ばあちゃんは何よりも尊ぶ。
そして、生きるということは「性」の要素も内包し、則雄は住田に対する青臭い感情を掻き立てつつ、それがサユリにとっては最大の武器となる。放送禁止用語を含むあの名台詞は、TPOに迷うが思わず大声にして言いたい力に満ちている。まさか、性器の名称を大声で叫ぶことが勝利に繋がるホラー映画があったなんて。人間の生きる力、天晴である。
ところで、春枝ばあちゃんの強さの源として「太極拳」が重要になっているのだが、鑑賞後に有識者と話して曰く、これはなんと映画化に際して持ち込まれたアイデアらしい。さすがは口裂け女を車で轢いた白石晃士の映画である。唐突な暴力ほど目が覚めるものだ。
圧倒的な「生」の化身こと春枝ばあちゃんの格好良さと、家族の助けとあらば全力を尽くす深い愛の力は、心霊に対する恐怖をかき消してくれるだけではなく、自分の怠惰や甘やかしに対する痛烈なカウンターが含まれており、不思議と活力を貰える。先述の通り、春枝ばあちゃんの教えとはこの世を自分の足で立って生きるために必要な根源的な人間の行いであり、起きてしまった理不尽に対して出来る、唯一にして絶対の反抗手段である。
映画『サユリ』は、不安だらけの現代社会を生きる我々に届けられた、大人のための道徳の教科書なのだ。よく食べ、よく動き、よく寝る。そうすれば、全ての困難が恐れをなして、逃げ出していくだろうから。
最後に、本作には未成年に対する性的加害の描写が含まれている、ということも知らせておくべきだと思う。直接的な描写こそないものの、だからこそ示唆的で、容赦のない気持ち悪さに満ちた、一人の男としても大変居心地の悪い瞬間であった。
これに関しては、有識者曰くサユリの過去を膨らませたのも映画オリジナルらしく、生=性の力が彼女にとってのトラウマを刺激する形となり、賛否の別れる改変と言えるのかもしれない。則雄の例の台詞にゲラゲラと笑っていた身としては、とても反省を促される内容であった。
起きてしまった理不尽は覆らない。ただ、幼い少女に抗う術などあるはずもなく、彼女の怒りも暴力も、ある程度は筋の通ったものだと思う。だからこそ、春枝は復讐の機会を与えこそすれ、同情を示すようなことはしなかった。ただ、当初は春枝も「地獄へ送る」と豪語していたものの、サユリは神木一家と共に消えていった。地獄へ“堕ちる”というような表現ではなかったはずだ。
自分の部屋で、これ以上犯されまいと醜い身体になって自分を守ることしか出来なかった少女が、自分の痛みを自覚して、涙を流すことが出来た。それを「救い」と受け取るのは、こちらの都合の良い解釈でしかないけれど、本当に忌むべきである父親にそれ相応の罰が下ったことは、彼女なりの「復讐」がようやく終わったのだと、そう思いたい。