『オーズ10th 復活のコアメダル』をもう一度観て想うこと、“人”であり続けた映司くんへ。
3月12日が来た。来てしまって、当然ながら我がTLの観測範囲でも賛否別れての感想合戦になっていた。座席やグッズ類の完売情報も相次ぎ、改めて作品への根強い人気と期待を伺わせると共に、激しい言葉で作品を批判するツイートも目にして、「わかるよ……」と肩を叩いてあげたくなる。
そんな一日を過ごしてからの翌13日、私もまた『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』を観に行きました。
もう一度観た理由は、二週間前の完成披露上映ではパンフレットが販売されていなかったのでそれを確保したかったのと、衝撃の結末を事前に知っていれば受け取り方が変わるんじゃないかな?という想いがあって、タカメダルと共に劇場に行きました。
……結果から言うと、同じ人間が同じ映画を観たとは思えないくらいあの結末への解釈が変わって、自分でも驚いています。なので、ぜひ前回のnoteをお読みいただいた方にも再度読んで欲しくて、こうして二回目の記事を書きました。あえて過去の自分の気持ちに反抗する文章になりますが、こういう受け止め方もあるんだ、という参考になればと思います。
ただし、あくまで「正解」でも「こうすべき」でもありません。『オーズ』への愛ゆえに今感じていらっしゃる悲しみや怒りは、それもまた尊重されるべきだと思います。コメントもお待ちしております。ぜひ声をお聞かせください。
火野映司は神様なんかじゃない。
『復活のコアメダル』を初めて観た時に感じたのは納得と、それに勝る悲しみでした。火野映司という男は、助けられる命が目の前にいれば手を伸ばさずにはいられない。だからあの少女を救って、アンクの命を現世に繋ぐ。それに関しては、一切の異論はありません。ですが、映司くんが「死にたくない/生きたい」という欲望を見せてくれなかったことに私が耐えきれず、あのような文章を書いてしまいました。
火野映司というキャラクターの描き方としても、『オーズ』の結末としても、絶対に正しい。正しいけれど、認めたくない。そんな幼稚なワガママを抑えきれずに書いた初見時の感想は、今読み返すと荒々しくて女々しい。けれど、気持ちの根っこは今でも変わらず、火野映司という愛すべきキャラクターの死なんてやっぱり観たくなくて、二度目の鑑賞時も結末を知っているからこそ冒頭から「その時」の予感でずっと泣いていました。
それと、あえてnoteにも書かなかったんですが、私は「映司の死」を神格化したくなかったんですね。幼い命を自分の身を顧みず救って、事切れる。その終わりを賞賛したら、火野映司をヒーローとして祀り上げることになるんじゃないかと。映司くんの命を繋ぎとめた比奈ちゃんたちの想いに反するんじゃないかと思って、ずっとずっとこの結末を消化しないまま(完成披露上映からの)二週間を生きてきました。
ですが、二度目の鑑賞でもっとも変わったのが、火野映司の死への受け取り方でした。初見時の私は、「自己犠牲を果たして死んだ映司くんはTVシリーズへの裏切りにならないか=都合のいい神様に仕立て上げてしまっていないか」という疑念に囚われていました。でも違うんです。火野映司は神様じゃなくて“人間だったから”死ねたんです。火野映司は命の火を燃やし尽くしたことで、人間として死ねたんです。私たちに永遠に愛される仮面ライダーオーズとしてでなく、一人の人間・火野映司として。
そう、解釈の順序が逆だったのです。映司くんの死をもって作品が終わるということに意識が向きすぎていて、この結末に気づけなかった。当たり前のことを大真面目に言うと、自分の命はいつだって自分だけのモノなんです。だから、どう使っても本人の自由で、そこに他人の意思は(影響することはあれど)介在しない。
だからあの時映司は、目の前の少女の命を救って、それでももっと他の命を救おうとした。その時思いついたのが、他の誰でもない「アンク」の名前だったから、『復活のコアメダル』が始まった。火野映司が自らの死期を悟った時、一番助けたい、手を伸ばしたいと思うのは、絶対にアンクただ一人。
自分がいざ死のうって時に、それでも誰かに手を伸ばさずにはいられない火野映司の多大なる欲望は、割れたコアメダルを繋ぐ=アンクを復活させるという奇跡さえ可能にしました。映司くんは自分の命を勘定に入れていなかっただけで、ちゃんと欲張っていたんです。それこそ、自らの願い一つで、死んだ者を蘇らせるほどの特大な欲望を最期に見せてくれた。
……とここで、実家の本棚から取り出した「公式読本」に本質が書かれてあったので、引用させていただきます。
武部P×小林靖子先生のこちらの対談を読み返した時に、まさに『復活のコアメダル』のことが浮かんできました。映司とアンクの共存はあり得ないし、火野映司は万人を救い続けてしまう。だからこその着地として、TVシリーズの最終話は、アンクが命を賭して火野映司を人間に下ろして終わる。そんな最終回を引用する展開を持つ『復活のコアメダル』は、火野映司が自らの命を与えてアンクを生かして終わる。あまねく全てではなくて、誰よりも大切なたった一人の相棒の命を救って、終わる。しかもその相手は、人間ですらない異形の怪物で、それでも救いたかったから手を伸ばした。自分の願いを叶えるために取れる選択肢の究極が「命を捧げる」だとしたら、それを選び取れるのが火野映司という男。
そして、その願いは叶う。人一人の命を賭けた最大級のエゴは、命無き者に命を宿す。そんな大それた欲望の器たる男が「満足」を覚えてこの世を去る。と同時に、身勝手な欲望を叶えて死ぬことで「人間」であることを証明して終わる。決して火野映司を都合のいい神様に仕立て上げず、人間として旅を終わらせてあげることこそ、キャスト・スタッフが考え抜いた末の『オーズ』のエンドマークであり、愛の表現方法だったのではないでしょうか。
まさしくこれって、『オーズ』TVシリーズへの最大の賛美とリスペクトになるのではと、今さらながら思ってしまう。欲望をテーマとし、エゴが時に他者を傷つけることも描きつつ、それでも「望み続けろ」と言い放ったあの一年間の物語は、火野映司という人間が己が秘めた欲望に気づくための旅路でもありました。そんな彼が、真に叶えたかった最後の願いを、自分の力だけで叶えてしまう。確かに、観客が望まなかった結末を含むけれど、火野映司が他の誰かのためでもない自分の願いのために殉じるというのであれば、それは『オーズ』の描いた欲望賛美の究極の形であり、本作が根底のテーマを裏切ったものとは思わなくなりました。
もちろん、別れの喪失は寂しいままで、犠牲なくして終われる結末があっても、私は喜んだと思います。されど、パンフレットのインタビューで皆が口々に「責任」と語る以上、これしかなかったんだと思います。
今は喪に服す時で、この哀しさも寂しさも、時間が経って受け入れられるようになるための、咀嚼の時期。繰り返しますが、これが「正解」ではありません。受け止め方は人の数だけあって、本作が受け入れられなかったのはあなたが『オーズ』の世界観やキャラクターを、本気で愛おしいと思っているからです。その心を、否定してはいけません。あなたの気持ちは、あなた自身が大事にしてあげてください。
それと、まぁ割と成仏できた側の人間として最後の苦言なんですけど、あそこまで最終回を踏襲するのなら「Time judged all」は流してほしかったな!!!!それだけです。ありがとうございました。
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