海のみえる8ビートを
砂浜を踏みしめる、ザクザクとした音
その音をドラムで鳴らせば、そこに海が広がるんじゃないか、
とふと思った。
「言葉をドラムで鳴らすこと」を考えはじめて約1年。
最初は「伝えたい」という気持ちが強すぎて、
必要以上に力が入ってしまったり、
想像している音と実際の音の乖離に悩むことが多かった。
試行錯誤を経て、ようやく手応えがつかめ始めた今年の5月、
後輩がオリジナル曲を作ってくれることになった。
最初はほんの軽い気持ちだった。
「学祭のステージに出られたらいいな」
本当にそのくらいの、
お酒を飲んだ後の根拠のない自信くらいの、
とても曖昧なものだった。
2人だった仲間は、5人に増えた。
Don't Trust Freshmen!!というバンド名がついた。
初めての曲を受け取った。
「叩ける」ことと「叩く」ことは全く違うことだと気づいた。
打ち込まれたフレーズをコピーするだけでは
人間である私が叩く意味はない。
自分が何を表現したらいいか、考えて、考えて、
毎日のように、ないお金をふりしぼってスタジオに入った。
この曲に「魔法をかけたい」と思った。
夜の輝く星や、高まる胸の鼓動、ちょっとの不安。
キラキラしたシンバルの音色で
全てを包み込みたいと思った。
自分の中の表現の引き出しを、全て詰め込んで、
学祭のステージの審査に臨んだ。
結果は落選だった。
悔しい気持ちと、悲しい気持ちと、不甲斐ない気持ちで
胸がグッと押しつぶされたような感覚だった。
外を歩いても、晴れた空は綺麗に見えないし、
道端に咲いている花も、美しいと思えなかった。
メンバー以外の誰にも、会いたくなくなった。
そんな時に受け取ったのが『demo8』という曲だった。
「海辺を歩いている曲です」とだけ説明があった。
静かに、穏やかに展開する前半部と、
全てをぶち壊すような轟音シューゲーザーの後半部
漠然と「海がみえるドラムが叩けたらいいなあ」と思った。
「言葉をドラムで表現する」という概念は非常に抽象的で、
こんな曖昧な考えよりも、音やリズムの正確性を
重視するべきと考える人も、多くいると思う。
自分自身、自分の叩くフレーズに客観性があるとは思えなかったし、
自分の頭の中に浮かぶ暗い浜辺が、
ドラムに現れているか、最後まで自信がなかった。
でも、今改めて考えるとやはり、同じ8ビートでも
「海の8ビート」と「街の8ビート」は違うと強く思う。
私は、海辺の砂のジャリジャリした感覚を、ハイハットの縁で表現するし、
軽やかに街を歩く様子を表現したかったら、スティックのチップをシンバルの上で跳ねさせる。
言語化の程度に差はあっても、
その意識があるかどうかで、
やはり楽曲へのアプローチは変わってくると思うのだ。
ライブをしたあの日から、1ヶ月が経った。
組んだ当初はほとんど面識のなかったメンバーも、
自分の表現を委ねたり、逆に受け取ったりする中で、
気づけば自分の中でとても大きな存在になっていった。
家族とも、友達とも言い難いけれど、
とても大きな「何か」を共有している感覚。
そして自分のやりたいドラムにも、明確な指標が見えてきた。
道を歩いていて「花が綺麗だな」と思う気持ち。
実際にその花が完全な形である必要はなくて、
たとえ枯れかけだとしても、
茎が曲がっていても、
それを「綺麗だ」と思える気持ちを、
ドラムに乗せたいと強く思うようになった。
私がドラムを始めたのは、大学1年生の時だ。
高校からやっていた人のように高い技術がある訳でも、
速い、華やかな曲が演奏できる訳でもない。
でも、他の経験者がドラムを叩いている間に
大事にしてきたこと、
例えば、中学生の時に読んでいた本だったり、
高校生の時書いていた文章に、
私のドラムは強く支えられていると感じる。
これからも、海のみえるような8ビートが叩けたらいいなあと、
そう強く思っている。
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