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大昔に箱根駅伝があったら、どのルートで箱根を登ったか?
なぜ人は箱根の山を登りたがる?
地図オタクの私、箱根駅伝を観戦しながら地図を眺めてニタニタするのが正月の恒例行事。
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こちらは駅伝のコース図。左上の標高グラフを見ると、5区の最高地点は874m!しかも5区の縦軸は他区間の1/9に縮小されています。
そこで、地理院地図で全コースの断面図を作って見てみると…
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うわぁ!箱根の山がまるで壁(最高勾配67‰)。
2区権太坂(30‰)や8区の遊行寺の坂(60‰)は選手にとってキツいとは思いますが、その高低差を考えると5区の山登りには敵いません。断面図を見るとかわいく思えます。
箱根と言えば関所。江戸時代、いえ、それ以前からある関門。
本州の中央には富士山や中央山岳地帯、関東山地と丹沢山地があり、東西を隔てています。江戸から京へ向かうため、越えねばならないのが箱根路。
でも、先ほどの地図をよく見て下さい。不思議に思いませんか?
なんで、こんなにキツいルートで箱根越えしてるの?
例えば、松田、山北、足柄、御殿場と御殿場線沿いに進めば、最高点でも標高450mだから楽に行けるんじゃないの? 他にも、熱海峠(617m)を通って海沿いに出るルートだってあるのに…?
険しい山道を超える理由
昔は大規模架橋や隧道(トンネル)などの土木技術がなかったため、多少のアップダウンがあっても、街道は丘陵や山の尾根に作られることが多かったようです。
谷沿い・海沿いの道
谷は湿地がちで足場が悪く、土砂崩れや倒木で寸断され易い場所。沢沿いに道を作っても、大雨や大水ですぐに崩れてしまいます。
海沿いの道はどうでしょう。「熱海~真鶴~小田原」ルートは崖がせり出していて、海辺は時化や満潮時は常時通行できなかった可能性も。また、崖に沿った道は険しく、このような場所に覆道(片洞門)や隧道が作られるようになったのは、早くても江戸中期以降のお話です。
尾根道・山道
山道は最初の登りこそキツいかも知れませんが、尾根に出た後の起伏はそれほど大きくなりません。また、自分の位置や目的地の方向を確認しながら進むことができます。
「日当たりと眺望が良くて足元が硬く締まった道と、暗がりで見通しが悪く足元がグチャグチャした道のどちらを歩きたいですか?」と聞かれたら、前者を選ぶ人が多いのではないでしょうか。
時代によって変遷する箱根越えルート
時代によって箱根越えのルートは異なっています。
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原図は箱根教育委員会
【ご参考】
箱根路の変遷についてー海路から陸路へ(西、森田 土木史研究 第13号)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/13/0/13_0_527/_pdf/-char/en
ルートの変遷の原因は、地理、政治、宗教、観光など様々な要因が絡んでいます。そこで、時代ごとの箱根路の地図を見ながら、なぜそのルートが選ばれたのかを、推測を交えてお話ししたいと思います。
古代(大和時代)の箱根路
大和時代は昔で言う大和王朝の時代で、現在は古墳時代と飛鳥時代を合わせた時期と考えられています。
古代は海沿い地域が未開発で、内陸の矢倉沢往還(現・国道246号)が主要道路でした。そのため、湯本ではなく南足柄市の関本がスタート地点。北部外輪山を越え駿河国の横走(よこばしり:「富士山を横に見て走る」に由来)に至る碓氷道が最古の箱根路と考えられます。
碓氷道の経路
関本→ 明神岳(1,169m:外輪山) → 宮城野 → 碓氷峠 → 仙石原(火口原)→ 乙女峠(999m:外輪山) → 横走(※)
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1000m山越え×2の超ハードコース。しかも、わざわざ火口原の低い場所に降りてくるなんて、不器用な生き方しかできなかったの…古代人たち?
碓氷道を使用した理由は?
このルートが使われた理由は分かりません。火口原に古代の人々を惹きつける何かがあったとしか思えません。
下図は、小田原上空から箱根を眺めたイメージ。
明神ヶ岳に立てば、眼下に広がるカルデラ。奥に芦ノ湖、手前に神山、大涌谷の煙が立ち上っています。せっかく箱根に来たんだから、この景色を見なきゃ!という感じなのか?
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箱根最高峰の神山(標高1438m)は古代から信仰があったようです。孝昭天皇の時、神山を奉るため聖占仙人が駒ヶ岳(標高1356m)に神仙宮を建てたのが、箱根山祭祀の始まりとされています。
箱根火山は縄文から弥生時代にかけてマグマ噴火が発生し、かなりダイナミックな地形の変化があったようです。それでも…
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上の図を見ると、火口原には縄文時代から人々が住んでいたようです。と言うことは、古代の旅人が休憩できるようなムラがあって、温泉で疲れを癒やしていた?(妄想です)
また、この道は日本武尊の東征に使用されたと、古事記に記されています。碓氷峠には、東征の帰り道に妻・弟橘媛の死を嘆いて詠ったとされる「吾妻はや」の碑があります。
奈良・平安時代の箱根路
奈良、平安の時代になると、足柄道が箱根越えの官道として使用されます。足柄峠は足柄坂といい、この坂から東側が「坂東」、つまり関東を意味するようになりました。
足柄道の経路
関本 → 矢倉沢 → 足柄峠(795m) → 竹之下 → 横走(※)
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もはや箱根に入ってもいません。この時代の人々は超合理的!箱根越えルートとして、最短で最低標高のルートです。
奈良時代には街道が整備されたので、関本(坂本駅)と御殿場(横走駅)には宿場機能が備わっていたと思われます。朝早く出発して峠を越えれば、明るい間に次の駅に辿り着けるので(グーグルマップによると5時間20分)、このルートが選ばれたのではないかと推測。
一方、757年に箱根権現(現・箱根神社)が建立され、箱根道が整備され始めたのもこの時期でした。
また、歴史上で初めて箱根の湯が記されたのは、738年の「熊野権現願文」。関東に疱瘡が蔓延した時期、加賀白山の僧侶が湯本に白山権現を勧請したところ霊泉が湧き出し、人々の疱瘡が治ったという伝承があります。
中世の箱根路
鎌倉時代には、箱根山を越える道には、京から下る場合、三島から御殿場を迂回して足柄峠を越え、関本から国府津へ抜けるいわゆる「足柄道」と、直接箱根山を登り、芦ノ湖を経て箱根権現を通り、湯本へ下るいわゆる「湯坂道」と呼ばれる2つのルートがありました。
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平安末頃からは箱根道(小田原〜箱根〜三島)の利用が促進されました。延暦21年(802年)の富士山噴火によって、御殿場周辺の交通状況の悪化が契機となったようです。小田原と三島の沿岸都市同士を直接結ぶルートで、そのような地域が政治経済の中心に成り代わっていく様子が伺えます。
中世箱根路の経路
小田原 → 湯本→ 湯坂山(547m)→ 浅間山(801m)→ 鷹巣山(834m)
→ 元箱根(箱根権現)→ 芦ノ湖→ 箱根峠(850m)→ 海ノ平山(941m)
→ 元山中→ 三島
やっと駅伝ルートに近づいてきました。
湯本から国道1号と箱根新道(旧東海道)の間に位置する湯坂山の尾根を登り、浅間山と鷹巣山の尾根伝いに元箱根へ。登り始めが急勾配で直線3kmの果てしない登りが辛そう。その後、芦ノ湖沿いから箱根峠へ登り、海ノ平山から国道1号の西北を並走するように、外輪山を三島大社へと下ります。
武士と箱根権現信仰
中世箱根道の発達を促進した最大の要因は、箱根権現の興隆です。
・延暦20年(801)、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に参詣。その後、多くの武将が参詣し、天皇も荘園を寄進。
・鎌倉時代には、源頼朝が二所詣(箱根権現、伊豆走湯権現)を創始。「関東守護/鎮守」と呼ばれ、鎌倉幕府の祈願所となる。
・室町時代は関東公方足利氏、戦国武将北条氏や徳川家康など武門による崇敬の篤いお社として栄えた。
源頼朝は、石橋山の戦いで敗走した際に箱根権現で匿まってもらった経緯もあり、信仰が深かったようです。二所詣には、さらに三島大社も含まれていたとの話もあり、箱根道が三島に直結した理由も読み取れます。
【ご参考】
Web版有隣「箱根神社とその遺宝」https://www.yurindo.co.jp/yurin/14739
箱根と統治
箱根は東海と関東を分ける自然の要害。峠を押さえれば敵の侵入を防ぐことができる防衛上の重要地点です。また、鎌倉へのアクセスが良く、海路のある国府津に近い小田原が、箱根越えの起点になったのも理解できます。
温泉湯治場としての箱根
湯坂道の起点である湯本は、京から鎌倉を結ぶ街道の宿場として、また湯治場として栄えていました。芦ノ湯も湯治場として古文書に記されています。
江戸時代の箱根路(旧東海道)
江戸時代になると、徳川家康が街道整備に着手する中で、箱根山越えの道は大きく変更されます。いわゆる「箱根八里」とよばれるルートです。この道筋は、江戸から京に向かう場合、湯本の三枚橋で早川を渡り、須雲川沿いを登り、畑宿を経て芦ノ湖畔に出る道です
…山越えの道は通行の利便性や道そのものの維持を考えるとき、日当たりが良く展望の利く尾根筋に位置することが望ましいと言えます。
しかし、箱根の場合、すでに好条件を備えた幹線道路があるにもかかわらず、あえて条件の悪い谷沿いのルートへと変更されています。(中略)その意図についても、1つには小田原~三島間の最短ルートを結んだということが考えられます。さらに推量を加えるならば、箱根関所の設置をもかんがみ、江戸防衛の重要地点として箱根山を位置づけていた幕府の防衛戦略的な意図に基づいたルート変更、とも受け取ることができるのではないでしょうか。
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箱根八里(旧東海道)の経路
小田原 → 湯本 -(須雲川沿い)→ 畑宿(400m)→ 屏風山北山麓(800m)→ 元箱根 → 関所 → 箱根峠(850m)→ 三島
江戸時代の箱根路は、現在の箱根新道に近いルートです。
湯坂道に比べると、上り始めの勾配が緩やかになりました(その分「七曲がり」が急だけど)。最高点が90m低くなり、下りも少し楽になったように見えます。距離も地図上の概算では2kmほど短くなりました。
幕府による箱根道の整備
江戸時代に入ると、幕府は江戸を中心とした五街道の整備に着手します。二代将軍秀忠は東海道の改修を命じ、湯本-畑宿-箱根宿の東海道が建設。 この道は既に北条氏のころから盛んに通行されていましたが、道幅も広く改修されました。
1604年には街道に一里塚が、1619年に関所が置かれ、東海道に宿駅制度も定められ、53宿駅が小田原や三島のほか、箱根にも置かれました。
箱根路は急な山坂道が多く補修が大変でした。幕府は沿道の村人に補修工事に当らせましたが、竹で土止めをするのでは、往来も多いためすぐに壊れてしまいます。そこで1668年、幕府の資金により永久的な石畳の道を造ります。これが箱根旧街道の石畳です。
箱根の関所
「入鉄砲、出女」で有名な箱根関所、水も漏らさぬようガッチリ押さえている。箱根八里の方が関所に近いので、通行人を一元管理しようと考えていたのかも知れません。
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箱根七湯の観光
江戸時代に入ると観光や温泉目的で箱根に来る人々も増えました。初期には病気療養目的であったのが、後期になると娯楽としての湯治が盛んになり、早川沿い(現国道1号沿い)の温泉地箱根七湯(湯本、塔ノ沢、堂ヶ島、宮の下、底倉、木賀、芦ノ湯)巡りが、大名から庶民の間で人気になったようです。
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関所と宿と温泉と神社と風光明媚な山々で、箱根は大いに栄えたのでした。
近代の箱根路(箱根国道)
明治時代、ついに国道1号線の駅伝コースが箱根路を登ります!
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国道1号線・箱根国道の経路
小田原 → 湯本 → 塔ノ沢 → 大平台 → 宮の下 → 小涌谷 → 芦ノ湯(最高点874m)→ 元箱根 → 関所跡 (以下略)
国道1号は、湯本から旧東海道を離れて早川沿いに大きく迂回し、上りの距離は5kmも伸びました。なぜ、そんなに蛇行させたのでしょうか?
その理由は2つ。
① 箱根七湯を通ること
② 馬車や人力車が通行できるような勾配であること
この道の建設を提唱したのは、かの福沢諭吉。箱根の湯をこよなく愛した諭吉は、温泉と景勝地を持つ箱根をリゾート開発する為に、道路建設が重要であると提言しました。
地元の温泉旅館の熱意と近代日本の技術力の結集が、後に国道1号線となる近代箱根路を作り上げます。(詳しく語ると10000字になるので、また今度…)
国道1号線には、様々なドラマが隠されていたのですね。
…駅伝関係ないじゃん!
と思った方、実はこの記事は壮大なシリーズのプロローグです。
時代によって変わる東海道を「〇〇時代の箱根駅伝コース」シリーズで記事にしていこうと考えています。いつになるか分からないけど、お楽しみに!
こちら途中経過報告です!
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