中世の城 茅ケ崎城址(2)
(1)からの続きです。前編は、城郭構造や歴史についてまとめています。
いよいよ、城郭を散策。その前に、もう一度お城の全容を。
では、参ろうぞ!
北郭
入り口からスロープ登った所にある広場です。
現在の北郭広場は、東西40m*南北30m*ほどの長方形の敷地。公園化に際して入り口用にスロープを削ったので、当時の北郭はもっと広かったらしい。
標高28m*、低地からの比高が15m*弱の立地です。
井戸
北郭の中央南側に井戸の跡地があります。
直径4m、深さ5mだったようです。
周囲には水汲み施設の遺構が残っていて、湧水量も多かったと記されています。井戸の上部(遺構確認面)から底までの水を汲み上げすると、20ℓポリタンク1000本分(2万ℓ)に達するそうです。
【ご参考】
北郭土橋
北郭の北側に説明板があります。
ここに、かつて北郭と外部をつなぐ土橋があったようです。
ここからは何も見えませんが、痕跡は公園の外に残っています。
写真右端のコンクリートで台形に覆われた部分が、土橋を切り取った跡。
土橋は空堀を掘り残して作られたもので、北郭と土橋の接続部には木戸があったようです。
中郭へ続く階段から、北郭を見たところ。
実は、秋口と春先の2回の訪問。やはり、古墳と城址散策は冬場に限るね。
中郭
さて、中郭へと向かいます。
階段を上った先には
運動会が出来そうな広い敷地。
地図上で見ると、東西50m*、南北30m*ほどの長方形の平坦地。
周囲を土塁で囲まれています。
土塁
郭の内側の土を削って、堤の上に盛っていたようです。
【ご参考】土塁について分かりやすい説明 ↓
主郭か?
公園には案内板がたくさんあり、参考になります。
この案内板では、一番標高の高い東郭を主郭(本丸)としています。しかし、前掲の「ビギナー女子の山城歩き」で、城郭研究家の西股氏は中郭を主郭と紹介しています。
私も、中郭の方が位置的にも広さの面でも便利だと思いますが…。
柱穴遺構
中郭の南東側に柱穴の遺構の配石模型があります。
掘立柱建物の跡で、倉庫だと考えられています。
中世の住居址は、まだ見つかっていないそうです。
土器
これまでの調査では、主に15世紀(室町時代)の「かわらけ」が発見されたそうです。関東管領・扇谷上杉家時代の遺物と思われています。
物見櫓?
中郭の南西角に、土塁が高くて厚くなっている箇所があります。
その頂上には小さな平坦地があり、先ほどの西股氏によると、物見櫓の役目があったのでは?ということです。
中郭の標高は33m、低地からの比高は20m弱*。対岸の大塚・歳勝土遺跡の丘がよく見通せます。
さて、中郭から東郭へ向かいましょう。
根小屋
城の南側に、家臣団の住居があったようです。
平時には近くで農業、緊急時には城に籠って一族総出で戦う。これが中世の土着武士たちの暮らしだったようです。
左図の黄色い部分は「明治期の低湿地」。ちょうど、根小屋周辺だけ低湿地ではなかったようです。昔の人は、土地のニュアンスを感じ取って居住地を選んでいたのかな。
中郭土橋
東郭へ向かう道に中郭土橋の説明があります。
中郭と東郭は深さ7mの空堀で仕切られていて、それを連結するために土橋が設けられました。盛り土で作られたことから、城の後半期や廃城後に通路として作られたとも考えられています。
後北条時代の改修か?
中郭の東側に、未完成と思われる中堀(幅4m、深さ5m)の遺構がありました。
中郭土橋と中堀は、戦乱に備えてセットで作られたように感じます。移動に不便な東郭に連絡路を作り、その付け根を守るために中堀を作ったのでしょうか。本来なら、中堀の排土で土塁を設けるはずなのに、跡が残っていないとのこと。よっぽどの急造工事だったのか。
うーん。とすると、やはり東郭が重要な主郭だったのかな…
東郭
さて、急階段を登り切ると、そこは東郭。
東西50m、南北20mほどの長方形。結構広い。
こちらにも説明版が…
東郭は中郭より2mほど高く、物見櫓としての役割があった。主郭かどうかは別として、最後に籠城する場所だったらしい。
腰郭
本丸と二の丸に高低があるとき、本丸の腰部に通路用の帯郭を設置することがあり、これを腰郭と呼ぶそうです。
しかし、ここの腰郭は守備に使われた可能性が高そうです。
東郭の北に見える黄色の帯状テラスが、腰郭の跡と思われます。標高30m*ほどで、東郭との比高は5m*強。東郭との間に空堀、その外側に土塁が巡らされていていました。
東郭から見た景色
南東の少し開けた場所から遠くを望む。
でも小机城は全く見えない。やはり、狼煙リレーは無理そうだなぁ。
それでも「8mの櫓を組めば、小机城が見える」と、専門家も真剣に検討しているようです。
【ご参考】「見えるか?見えないか?中世のお城」(埋蔵文化財センター)
城郭の南側
南側の帯郭を通って、西郭に向かいます。
平場
堀や土塁による仕切りがないテラス状の場所を、平場と呼ぶようです。とても広く、かなりの兵を待機させることができそう。
二重土塁
この方向から見ると、柵の外側に盛り上がりがあるのが分かります。これは二重土塁の跡です。遊歩道は空堀、その右側にも土塁。城の南側を守るために設けられたようです。これが、東郭から中郭、西郭までぐるっと囲っています。二重土塁は、後北条氏独特の築城方法とのこと。
中郭と西郭を分ける丁字路にやって来ました。
この左手に、先ほど中郭から見た高い土塁があります。
前掲記事の西股氏の説明では、元々は山だった部分を切り残して土塁にし、さらに盛り土で高さを出しているとのこと。
地図上では、土塁の最高地点は約39m*、隣の西郭の土塁も36m*ほど。遊歩道の高さは33m*なのでかなり高く感じます。
空堀には長年土砂が堆積している上、遊歩道にするために盛り土も施されているので、当時の空堀はもっと深かったはず。
植物を活用したお城ライフ
生活と植物
丁字路にあった説明版。生活というタイトルです。
城に生えている植物は、日々の生活にも籠城にも役立ったようです。
燃料
こちらは、東郭にあった「燃料」についての説明版。
ここで「茅ケ崎」の由来の「チガヤ」が登場。早渕川沿いにたくさん生えていたようです。杉の葉が燃焼材として重宝するのは、狼煙の記事で学習済み。もしかしたら意識的に植林していたのかも知れません。
やはり、城にとって樹木や植物は重要。燃料や食料、武器の材料、城の構造の維持など、様々な活用方法があったはず。
私は、中世城郭は単にそれ専用の目的だけでなく、平時には幅広い目的で民衆に利用されていたのではないかと考えます。
築城に駆り出された人々が何らかの恩恵を受けられるようなシステムで、城の維持管理と引き換えに、柴や薪木、果実類の収集、木材の間伐使用が許されていたのではないでしょうか。だからこそ、廃城後に入会地(村の共同所有地)になったと思うのです。
西郭
中郭と西郭の間の空堀だった遊歩道を進むと、階段が出てきます。これを上っていくと…
木々は多いけど、開けた場所に出ました。
こちらが西郭。草が茂っていて広さが分かりにくいけど、直角二等辺三角形っぽい敷地です。
南西側の分厚い土塁が存在します。その東半分は削り残し、残りの半分は人の手で盛ったようです。だとすると、中・西郭の南側の盛り上がりは元々一つの山で、真ん中を空堀で削ったという事でしょうか?
南と西の守りの強化
ここまで見てきて、城の南側と西側の守りが強固になっていることが分かりました。いずれも戦国時代の後期の築造のようです。
なぜ、この部分を重点的に強化したのでしょうか?
標高図から想像するに…
城の南西側は台地と地続き、さらに地盤の標高も高いため城郭の比高が低くなっています。主郭までの距離が遠い北側や、比高が高い東側に比べ、南西側は侵入しやすい箇所に思えます。ここを固めることで、城の安全性を高めようとしたのではないでしょうか。
【ご参考】
空堀
再び、中郭と西郭の間の遊歩道に戻って来ました。
空堀の説明板がありました。
堅いローム層が、急傾斜の空堀を可能にしてたのですね。
遊歩道から中郭側の高い所で5m*ほど、西郭側で3m*ほどの高さがあります。
虎口
遊歩道をさらに進むと、虎口の説明板が出てきました。
専門家は、ここが城の入り口と考えているようです。
三方を土塁に囲まれ狭くなっている場所で、折邪(おりひずみ)と呼ばれる構造だそうです。
右が北郭、左が中郭の土塁。正面左奥が西郭の裾野で、右にカーブすると公園の北西側入り口に続きます。
他には、東郭にも虎口と推定される場所があります。
しかし、城郭研究者の西股氏は、最初に登場した北郭土橋を入り口と考えているようです。
「入り口はどこだ」と「本丸はどこだ」問題は、中世城のあるある問題。
階段を降りると、公園の北西側入り口に到着。
【ご参考】
茅ヶ崎城址埋蔵文化財本発掘調査報告 pdf 78ページ
2006 横浜市環境創造局/横浜市ふるさと歴史財団
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結局、茅ケ崎城も守りが堅すぎて、無理ゲー設定だと分かってしまった。
さすが、後北条氏のお城と謳われるだけある。守りが素晴らしく強固な上、居住可能な敷地が広くて、多くの兵を収容しても快適なお城ライフをおくれそう。
しかし、これほど立派なお城なのに、記録も残りそうな時代なのに、詳しいことが分からないらしい…やはり、中世城は謎だらけ。
前後編に分けたのに、ガッツリ4000字。
長い文章をお読みいただき、ありがとうございました。
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