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【再訪】稲荷前古墳群 鶴見川遺跡紀行(10)

う一回、もう一回、何度でも~古墳がある限り~♩

すご〜く間があきましたが、前回からの続きです。

投稿が遅くなったのは、書いているうちに内容が広がり過ぎて収集がつかず、悩んだ末に大幅ダイエットしたため…と言い訳しておきます。

この稲荷前古墳群は、note始めたばかりの頃に一度訪れています。当時は古墳に登れるだけで喜んでいた、単なる「にわか」でした。

おことわり 前記事同様、昨春実施の散策なので現況と異なることがあります

市ヶ尾周辺

東急田園都市線と246号を越え、青葉区役所を横目で見ながら颯爽とペダルを漕ぐ。東岸には行政機関や企業、大型マンションが立ち並び、いかにも市街地といった風情。

夕暮れているのは、帰り路に撮ったから

しかし、246号(大山街道)の川間橋をくぐると、風景が一変。

市ヶ尾水辺の広場
市ヶ尾高校グラウンドの隣に、水辺の広場があります。

急に昼間に逆戻り

堤防道路からスロープで川べりに降りて、水と触れ合えます。

座っていたら、時が経つのを忘れそう…

さらに、市ヶ尾高校の先で黒須田川が鶴見川に合流。

右下が黒須田川の合流口

ここは、鶴見川の中でも最も美しい場所の一つ。
あ~本当に気持ちがよいな……ウツラウツラ…ハッ!?


稲荷前古墳群

…そんな訳で、夕方になりました(ウソデス)

市ヶ尾高校から横浜上麻生線を渡り、横浜上麻生道路(日野往還)沿いの水道局の近くに、古墳の入り口があります。

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駐車場の端に案内板
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一連の古墳は、この地域を支配した歴代有力者とその一族の墓とされています。

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登ってみよう!
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この先、右と左に通路が分かれます。
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今回は、左側から行こう!
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途中、鶴見川と対岸の丘陵地が一望できます。(標高40mほど)

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見えて来た…階段の上は標高50mほど。

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16号墳(前方後方墳)を北側からみたところ

うわー、何度見てもかっこいい!!


古墳群の概要

稲荷前古墳群は、青葉区大場町の横浜上麻生道路に面した丘陵上にある。
狭い範囲に、前方後円墳2基(1号墳・6号墳)・前方後方墳1基(16号墳)・円墳4基・方墳3基の計10基の古墳横穴墓9基が発見された。やせ尾根上の複雑な地形に位置し、欠番は自然地形と判断されたらしい。

様々な形の古墳が多数密集し「古墳の博物館」とも称されたが、その多くが開発工事により破壊され、現在は前方後方墳の16号墳方墳の15号・17号墳の3基のみが保存。1970年に神奈川県指定史跡に指定。

図書館で借りた「横浜の古墳と副葬品」より

古墳群は谷戸によって削られた丘陵の尾根の南北に二分され、主要な部分は南側に集中。

北  前方後円墳(6号墳)と大型横穴墓群3基
中央 突出た平坦地に3号、5号の円墳
南 北側 最大の前方後円墳(1号墳)
     横穴墓群、小円墳が集結
  南側 最古の前方後方墳(16号墳)
     方形墳群
  1号墳、13号墳の下から弥生時代集落跡発見

古墳群の規模や埋葬物の詳細

資料から抜粋してまとめてみましたが、出典ごとに微妙に数値が違います。

案内板で各古墳の築造年代が明示されないのは、副葬品が少ないため比定が難しいからだそうです。

上表に示した築造時期は、学術論文ではなく、個人の方のサイトからで引用しました(出典が無いのですが、参照した論文に載っていなかった小さな古墳の築造年代も漏れなく掲載されていました)。複数文献で確認したところ、同古墳群の主要古墳の築造年代は一致していたので、全体的に齟齬がないと判断しました。

【ご参考】
CGで古墳の形と位置関係を再現しています。

埋文よこはま30 「横浜の前期古墳」
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/cms_files_maibun/pr_brochure/my030-hi.pdf 


15号墳(方墳)

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1辺が10mほどの台座状。溝が埋まった方形周溝墓みたい。

16号墳(前方後方墳)

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2段構造っぽいけど、土が流れてよく分からない。

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北東側の角はかなり削れてしまっています。

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ここがクビレの辺りか?

この前方後方墳は「■+▲」ではなく、「■+▲+■」の「ばち形」なのだそうです。

入口階段の近くの案内板
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墳頂から南を望むと、左前方に見える盛り上がりが17号墳です。


17号墳(方墳)

前回見た時は、古墳だと気がつかなかったけど…

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こちらも方墳のようです。詳細は不明ですが、盛土で作られた形跡があることが分かっています。

現状では分かりにくいので、ご参考までに…

2013年ごろの稲荷前古墳群を散策した個人の方のブログです。このお写真だと、木々が茂っていないので墳形がはっきり分かります。


方墳、前方後方墳の歴史的位置

現存している古墳は、稲荷前古墳群の一番最初(4世紀代)に築造された方墳を主体とするグループです。

方墳
弥生時代の方形周溝墓に原形があると考えられています。

前方後方墳
古墳時代前期前半、主に東日本(東海・関東地方)で多く造られましたが、非常に短い期間に限られます。

100メートル超の大規模なものは大和に集中(5基)していますが、下野に2基、上野・越中・美濃・駿河にも1基ずつ存在しています。
また、出雲から日本海側の地域、伊勢から東海へのベルト状の分布もあり、勢力圏や人の移動にも関係するのではないかと想像します。

以前は、前方後円墳が畿内を中心とする西日本勢力の首長墓、前方後方墳が東日本勢力の首長墓とする説が主流だったようですが、

①前方後円墳と前方後方墳が併存
②前方後円墳も前方後方墳も最大規模は畿内に存在
③副葬品に前方後円墳と前方後方墳に差がない

上記から、畿内と東国との二項対立説ではなく、2つの違いは「首長層の政治的なランク付け」の反映であると考える研究者もいます。


古代南武蔵の勢力と古墳

古墳の形式と年代
下表は、時代により変遷する古墳の形式を示したものです。

横浜市域の後期の古墳および横穴墓群について 鈴木重信

稲荷前古墳群は、前方後方墳、前方後円墳、円墳、方墳さらに横穴墓まで、「古墳の博物館」と称されるほどバラエティーに富んでいます。それは、長期に渡り有力者がこの地域を治めていた証拠でもあります。


市ヶ尾周辺の古墳と遺跡

古墳時代の4〜7世紀、谷本川(鶴見川)流域に広がる都筑郡は、大和政権との繋がりのあった有力な首長が治めていて、市ヶ尾付近には他にも朝光寺原古墳群や市ヶ尾横穴墓群などが存在します。これらも、地域を治めた歴代首長と一族の墓とみられています。

稲荷前古墳群(古墳前期)→朝光寺原古墳群(=円墳 中〜後期)→稲荷前古墳群(後期)→市ヶ尾横穴墓群(終末期)と移り変わったそうです。


南武蔵の主要な古墳と年代
少し視野を広げてみましょう。南武蔵の古墳群と形式、年代を示した図です。
鶴見川の下流域と上流域で早い時期から古墳の築造が始まっています。

「武蔵国造の乱」はあったかより

上図の編年図は「和田編年」で、1~4期を前期(3C中~4C後半)、5~8期を中期(4C末~5C後半)、9~11期を後期(5C末~7C初)としています。
※この表には、稲荷前古墳群の番号に誤りがあり、正しくは1号→16号、16号→6号、6号→1号だと思います。

巨大な前方後円墳→円墳→小型な前方後円墳→円墳→横穴墓の流れは、多摩川流域の古墳群と同じ流れです。


規模と副葬品からみられる序列
下流の矢上川流域に存在する加瀬白山古墳と観音松古墳は、前方後円墳の規模も大きく、三角縁神獣鏡などの鏡が出土していることから、ヤマト政権と関係の深いと考えられています。
早くから低地大規模稲作に成功し、富を蓄えた有力者が埋葬されているのでしょうか?

埋文よこはま30より

一方の稲荷前古墳群は、前方後円墳の1号墳に僅かな装飾品と刀子、6号墳は盗掘で副葬品が無く、現存する16号墳からは、祭祀に使われたと見られる壺などが出土しています。

このことから想像すると…
街道沿いの重要拠点を治める有力者ではあるものの、①白山古墳被葬者より財力がなかった、または、②そもそもヤマト政権に対して忠誠心が薄かった。
そのため、豪華な副葬品を集められるほどの強いつながりや力を持っていなかったのではないでしょうか。


古墳の分布からみる勢力分布

埋文よこはま30「横浜市の前期古墳」より

古墳時代前期に、南武蔵に存在する大きな前方後円墳は次の通り。

※南武蔵
荏原郡(東京南部) 多摩川流域 亀甲山古墳、宝来山古墳など
橘樹郡(川崎・横浜一部) 矢上川流域 加瀬白山古墳、観音松古墳
都筑郡(横浜市北部) 鶴見川流域 稲荷前古墳群
久良岐郡(横浜市中心部) 大岡川・帷子川流域 殿ヶ谷古墳群
※相模国 
高座郡 相模川流域 秋葉山古墳群
御浦郡 長柄桜山古墳群

このように見ると、各郡にそれぞれ前方後円墳が存在し、国郡里制の原型が古墳時代前期には既に出来上がっていたよう思えます。


古墳群の発見と保存

1966年(昭和41年)に田園都市線が開通し大規模開発が進行する中、古墳群は宅地造成中の1967年(昭和42年)に発見されました。遺跡調査団(横浜市北部埋蔵文化財調査委員会)が開発に先立ち、1967年8月と1969年2~3月にかけて発掘調査を実施し、10基の古墳と横穴墓9基を確認。

当時、鶴見川上流域の貴重な前方後円墳、前方後方墳を含む古墳群として、考古学者を中心に保存運動が巻き起こったが、当時の市長は保存に積極的ではありませんでした。
さらに、1号墳は造成工事で墳丘の際まで削り落とされ、絶壁化したことで物理的に保存が難しくなりました(開発業者が意図的な仕業とも)。

左図の赤い囲いが古墳群のあった辺り
昭和50年代には、既に住宅地に

【ご参考】


こんなにも立派な古墳群だったけど、立派な副葬品や威信財が無かったせいか「イワシの頭」扱い…せめて前方後円墳の1号墳だけでも残せていたら、より貴重な遺跡となったのに。

いえ、たとえ立派な副葬品があったとしても、加瀬白山古墳の例を見れば、結局のところ滅失は免れなかったのかも知れません。

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振り返って、左手が17号墳、奥が16号墳

高度成長期に幼少期を、バブル時代に青春期を過ごし、恩恵を受けた者が語るのは大変おこがましいのですが…

あの時代に得たものは大きかった一方で
失ったものもまた、大きかったのでしょう


次は、さらに上流へ向かいます。


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。