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勝田杉山神社

今回は、勝田杉山神社とその別当寺の最乗寺、さらに近くの豪農・関家住宅を巡ります。

勝田社は、延喜式内社の有力候補(論社)に挙げられたり挙げられていなかったりと微妙な立ち位置のようですが、杉山神社を詳しく紹介しているサイト(保土ヶ谷郷土史)では、大熊社と共に論社と記載されています。

大熊社論社説はあまり見ませんが、その立地は式内社に相応しい立派な場所でしたので、個人的には論社説大賛成。となると、勝田社にも期待がかかります。

勝田町の立地

勝田町は、中原街道と早渕川の交わる交通の要所。

中原街道から杉山神社方向を見たところ。なだらかな丘になっています。

そこから一本奥に入った尾根道が、旧中原街道です。

標高図を見てみると、

早渕川と中原街道の交点を中心として、山田神社と対称の位置にあります。


勝田はカチダ?

勝田の呼び方は「カツタ」ではなく「カチダ」。
発音から「鍛冶田」が想起され、地名の由来として産鉄地説もあるようです。

一方で、カツカチには崖や急斜面が意味する説や、また、川の浸食を受けやすい所、川の内岸、沼地や湿地の意味する説もあるようです。(地図を見ると、どちらも当たっているような気が…)


歴史上のカチダ表記

「カチダ」は、鎌倉時代から既に歴史にその名が挙がっています。
主要街道沿いなので、当時から重要な場所だったのでしょう。

カチダの地名表記変遷
鎌倉時代の承元3年(1209)ころから見られる。
天正18年(1590)、秀吉の禁制に「小机の庄」内「かちた」。
文禄3年(1594)の関家の文書には漢字で「勝田郷」。
慶長4年(1599)の幕府からの宛行状では「鍛治田」。
家光のころの『武蔵田園簿』では「歩田」。
寛文12年(1672)の検地帳には「勝田」。

Web有隣No.435

「歩」は「徒歩(かち)」なの? いや、読めない…。
どのような漢字を当てられようとも、「ウチはカチダだから」と村人が言い続けてくれたお陰で地名が正しく存続したのかも。

ここで…「あるある」地名の変遷パターン!

①音を聞いた受け手が勝手に漢字変換
 受け手のボキャブラリーや出身地の影響で表記が揺れる。
②当てられた漢字が訓読みや別の読み方に変化
 元の音が残らないが、漢字は(音の痕跡)は残る
変更された読み方に則した漢字の書き換え。
 もはや、音も字も原形をとどめない。
由来が不明になる。
 皆が都合の良い由来説を唱え出す。

「カチダ→ 歩田→ ホダ→ 保田→ ヤスダ→ 安田」で、危うく「保田」や「安田」になる所でしたよ。(ちょっと強引)

さて、脱線しすぎましたので話を戻しましょう。


最乗寺

旧中原街道の尾根道に差し掛かる手前に

浄土真宗の寺院、最乗寺があります。

梅がきれいに咲いています。
境内のイチョウは名木指定

室町時代の文明18年(1486年)に開創されました。

勝田杉山社が論社だとしたら、お寺の方が後からできたことなります。


勝田杉山神社

最乗寺の駐車場から細道を上ると、杉山神社の参道入り口に出ます。

小さな入り口で、見逃してしまいそうです。

参道

鳥居は社殿の正面ではなく、横向きに設置されています。

右に曲がると参道。これまた、ちょっと狭い。

社殿が見えてきましたが、位置がずれている感じ。

やっと、正面に拝むことができました。

一段下の境内には力石や塞の神
狛犬は年季が入っている
明治24年と書かれている

社殿

社殿は平成4年完成のコンクリート造

社殿右側に旧街道とダイレクトに繋がる通用口があります。鳥居はないのですが、今ではそちらの方がメインの入り口のように感じます。

鰐口が吊るされています。

境内

社殿右には稲荷社
社殿の左には由緒の石碑
その左に御嶽神社

実は、秋口と春先の2回訪れました。

秋は木々が鬱蒼としていて、神社のある丘の姿がよく分かりませんでした。鳥居や参道が取り急ぎ設置されたような位置にあり、古代に建てられた雰囲気を感じなかったのです。

しかし、落葉し下草が刈られ山の形がはっきりすると、隠れていたものが現れて、今までになかった空気を感じます。
鎮守の森には、お墓と仏塔の他に小さな祠も見えます。

本殿の背後に森が広がっていました。

カーブミラーのある所が参道の入り口。社務所のある場所が通用口

通用口から旧街道に出てみました。
ちょっと登っただけですごい見晴らし。そして、尾根に沿って続く杉林。

手入れが行き届いた立派な杉林です。

由緒

杉山社
除地、五畝、此外免田三段四畝、村の乾の方にあり、本社二間半に二間、拝殿三間に二間、本社に作りそへて東にあり、神體は不動木の立像にて長八寸なるを安置す、又八幡稲荷を合殿に置り、例祭は年々八月二十一日村の鎮守にて村民の持なり、當社の勧請は傳へざれど、應永の鰐口を社前に掛く、其圖上にのす、かかるものあれば古社なるよしいへど、うかかいがたし、猶橘樹郡下菅生村の條合せ見るべし。

新編武蔵風土記稿より

新編武蔵風土記稿には、応永年間(1394-1427)の銘が入った鰐口が掛かっていたとあります。しかし、その鰐口には「蔵王権現 武⬜︎下多東菅生大蔵」と銘があり、元々は川崎市菅生の犬蔵にあった御嶽社の物が勝田社に移されたのかも知れないと書かれています。

御嶽社は菅生神社に合祀されており、そこは川崎市宮前区にある白幡八幡大神を勧請した社だそうです。現在、勝田社も白幡八幡の宮司が兼務されています。

御祭神

主祭神は五十猛命と日本武尊。


不思議な境内

勝田社の標高図をみると、なんとなく違和感があります。

敷地に余裕があるのに、社殿と参道が旧街道にぴったりと沿っています。

社殿は境内の中央になく、奥が広く空いている

そう言えば、風土記稿には「拝殿は東を向いている」と書かれていました。もしかしたら、今とは違う参道が存在したのでは…。

写真左奥の柵の向こうを覗いてみると、

竹林となっていて、緩やかな傾斜が麓まで続いています。

昔は、そこから下までが参道だったのかも?

参道のイメージ

先端から境内まで参道だとしたら、山田神社までは行かないけど結構長い。

標高図では尾根の稜線が一本の筋になっています。気になるのは、斜面の中腹が抉れたように見えること。ちょうど、あの竹林の辺りです。
昔、地滑りか何かがあったのかな?竹は土の流出を防ぐために後から植えられたのか、あるいは、竹林が原因で地滑りを起こしたのか?参道が崩れたから、旧街道沿いの狭いスペースに再建したと考えると、境内の違和感も説明できるかも。

妄想はどんどん膨らみます。


関家住宅

まるで屏風を背にした雛壇のような地形、台地が半円状に繰り抜かれ、その内側が台座のように高くなっている場所があります。そこに佇む古風な趣きの屋敷が、関家住宅です。

きれいに手入れされた屋敷周辺

関氏の祖先は、関加賀守という後北条氏に仕えた土豪。江戸時代には勝田村の名主や代官を担っていた名家です。新編武蔵風土記稿でも、旧家者百姓として記載されています。

字が擦れて見えない。

関家住宅は関東地方で最古級の住居で、主屋は木材の加工痕や構造などから17世紀前半の建築と推測される。主屋書院、表門敷地国の重要文化財に指定。敷地まで指定されるのは非常に珍しく、山林・畑・墳墓地も含まれる。

すると、あの林にあった石塔や祠は、関氏のご先祖のお墓や屋敷神なのか…。

文化財指定の表門

立派な長屋門。1階は幕末期に、2階は明治期に養蚕のため増築された。
奥に見える母屋は17世紀前半の建築。

句碑

敷地は一般公開していないので、ここでおしまい。

家康の江戸入府から明治維新まで、勝田村は御家人・久志本氏の領地。そして、代々名主を務めたのが関家です。世襲名主だったので、貴重な歴史文書が今も多く残っているとのこと。 江戸時代の終わりには、名主だけでなく代官も兼ね、江戸住みの久志本氏と領民の橋渡し役を行っていました。

将軍たちが鷹狩の際の休憩所として使用されたそうです。主屋の左にある書院は、その目的で作られたと関氏では伝承されています。
【ご参考】
Web有隣 東日本最古級の民家 国指定重要文化財 関家住宅 (1)〜(3)
https://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_435/435_2.html


勝田杉山社は式内社か?

川沿い、高台、五十猛命、古街道沿い…などパワーワードが目白押し。中原街道沿いで橘樹官衙にも近く、もし関氏が古くから存在した豪族なら、都との繋がりを持つことも可能だと考えます。
これで、麓に鳥居があって、参道と階段が長いのなら文句なし!個人的に式内社に比定しても良いくらい。

一方で、御嶽社との関係が気になります。不動明王と金剛蔵王は信仰が異なるし、犬蔵とは郡も違うし距離も少し離れている。両社の間に何の関係があったのだろうか?

中世社会の信仰のあり方は、領地の移動や武家の栄枯盛衰も絡んでいて一筋縄ではいかないなぁ。

う〜ん。結局のところ、何も分からずじまい。

ということで、杉山神社巡りの旅はまだまだ続く…。


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。