民権の森 鶴見川遺跡紀行(23)
自由民権の郷・多摩
武相荘を見た後…
その足で自由民権資料館に行ったら臨時休館だった(けど、後日再訪した)話
からの続き
以下、自由民権資料館を見ていない状態での散策が続きます。
今日の収穫は武相荘だけか…
電車賃と時間をかけた割には取れ高が少ないなぁ
ふと、資料館でもらった散策地図を開いた。
民権の森
というわけで、頑張って野津田神社までやって来ました。
神社脇の階段を登って行くと…
すると、突然看板が出てきた。
「多摩・自由民権運動の祖」石阪昌孝
これだけだと「ふーん」という感じなので、もう少し調べることに。
養子に入った母の実家は、村の1/5を占めるほどの資産を持つ豪農で名主職。義父・昌吉は質実な地侍のような人物であったが、幼少期の昌孝は自由奔放に育ったといわれ、「勉強もあまりせず、これはという時にならないとやらない。そのくせ、 やらせればなんでも一番だった」と伝わっている。
16歳の時に義父が他界。昌孝は若くして名主となる。地域の教育にも熱心で、自宅に天然理心流の剣術道場を開き、近藤勇を招いて稽古を行ったという。
維新後、明治政府が発足し、様々な近代化政策が打ち出された。しかし、これらは農村社会に大きな打撃を与えた。その代表的なのものが、地租改正と紡績業・製糸業が国営化。特に生糸関係で稼いでいた多摩の豪農たちにとって、非常に大きな痛手となり没落者も現れた。
農村では自由民権運動に関心を寄せる人が多く、その中心はリーダーの役割を担っていた豪農層であった。彼等は地主として農業生産に関わると同時に、製糸・織物業などにも関連を持っていた。明治以降は区戸長などを務め、地方民生について豊富な経験を持つ人材であった。
また、自由民権運動は単なる政治的運動にとどまらなかった。専制的な明治政府の変革を求めて、各地に生まれた結社が学習会や講演会を中心とした一大文化運動、思想運動まで展開していったのだ。これは、江戸時代からの多摩地域の農村社会の在り方にも合致していた。
昌孝は自由民権運動に加わり、政治結社「融貫社」を結成、青年活動家を育成した。自由党に入党後は、神奈川自由党と自由党の幹部として東奔西走。活動に湯水のごとく金を使った。
一方、自由党では党中央部に服さない急進派の力が増大し、数々の激化事件を起こす。朝鮮のクーデターを支援し、民衆のナショナリズムの高まりを利用して、政府に国内改革の実行を迫ろうとしたのが「大阪事件」である。 これには、村野常右衛門ら多くの三多摩壮士たちが関与していた。
昌孝は、事件に関与した壮士たちに賞賛する歌を記した。彼には、民権運動の理想とは別に、強い反政府的な感情もあったのではないであろうか。
さらに、石坂家には、厳しい生活を強いられた農民層(困民層)との深い結びつきがあった。
自由民権運動が活発化した契機は、松方デフレといわれる。農作物の価格下落は農民の生活権を脅かし、農地売却、小作農への転落、農業従事者の流失など、農村自体が存亡の危機に立たされた。実際に昌孝自身も、松方デフレで 75%の土地を失っている。
明治政府への反発は、やがて全国的な国会開設運動と憲法起草運動へと盛り上がりを見せる。五日市では、千葉卓三郎により205 条にも及ぶ憲法草案「日本帝国憲法」(五日市憲法)が編まれた。
しかし、集会条例によって地方結社への弾圧が強化されると、全国的に自由民権運動の中心を担った多くの豪農層が離脱。そのような中でも昌孝は、自分の財産を使い切ってまで運動に精力を注ぎ、 困民層の人々の面倒を見るなど寛容な心を持っていた。
1889年に大日本帝国憲法が発布、1890年第一回衆議院議員選挙が実施されると、神奈川県第三区から出馬した石坂昌孝は圧倒的な勝利を得た。これは、彼の活動が各農村に根を下ろしていた結果である。以後、連続4回の当選を果たす。
しかし、国事に奔走した昌孝は資産の多くを失い、残るは井戸と塀ばかりの「井戸塀政治家」と言われた。家族も四散し孤独な晩年を送り、66歳で生涯を閉じる。
後に村人らによって、かつて石阪家の屋敷があった場所(町田ぼたん園)を見渡せる丘の上に、昌孝の墓碑が建てられた。
【ご参考】
石阪昌孝 自由民権の森に眠る時代の先駆者
https://www.city.machida.tokyo.jp/kurashi/community/shimin/katsudou/machibito/machibito201607.files/M35_P10-11.pdf
三多摩壮士はなぜ生まれたのか ~自由民権運動にみる多摩の DNA~
https://www.tama.ac.jp/guide/inter_seminar/img/2013_tamagaku.pdf
町田ぼたん園
民権の森に隣接する町田ぼたん園。
森から直接園に入る門は閉まっていて、一旦、山を降りて正門へ回ることにしたけど、結構サバイバルな道のりだった。
牡丹の季節ではなかったので突っ切って、和風庭園へとやってきました。
自由民権の碑
北村透谷は詩人として知っているけれど(読んだことはない)、その透谷がなぜ、自由民権の碑に?
透谷は没落藩士の子息として生まれ、幼い頃は両親と離れ、厳格な祖父と愛情薄い継祖母と共に暮らす。
東京専門学校(現・早大)政治科に入学後、東京の三多摩地方を放浪して自由民権の壮士たちと交わる。大阪事件への参加を求められたが、煩悶の末、頭を剃って運動から離脱。現在の価値観ならば透谷の判断は当然の事だが、当時の価値観では、一度仲間になったら最後まで共に行動するのが当然のことだった。
その後、文学へ移って詩や評論などで活躍。
1888年にキリスト教の洗礼を受ける。婚約者のいた民権運動家の石坂昌孝の娘ミナと恋愛関係となり、周囲の反対を押し切って結婚。
島崎藤村らと共に初期浪漫主義運動の指導的役割をはたし、また、プロテスタント各派と交流して反戦平和運動を展開した。文学は人間性の深い真実をこそ求めるべきとし、内面的生命における自由と幸福を重んじた。
その一方で、理想と現実の矛盾に苦しみ、1894年に自殺する。
【ご参考】
北村透谷における文学と社会 ―その接点と距離― 陳 璐https://core.ac.uk/download/pdf/132626122.pdf
でも、大恋愛で結婚したのに、わずか6年の結婚生活で幼子も残して勝手に死んじゃうなんて酷い!
…と思いましたが、なんと奥さんのミナは、透谷の死後の明治32年にアメリカに子連れで留学し、40年に帰国。豊島師範や品川高女で英語を指導する。昭和3年から透谷の詩の英訳をはじめる。昭和17年、78歳死去とのこと。
(やはり、多摩の豪農の娘は強し!)
太宰も透谷も、夫としては結構ひどい奴なのだけど、それでも妻たちは彼らの作品を大切に守っている。これが真の愛情なのだろうか。
薬師池公園
(何も知らないと、あまり感慨が沸き起こらず)「民権の森」や「自由民権の碑」に今ひとつピンと来なかったので、勢いで薬師池公園まで足を延ばしました。
池沿いの梅林を登っていくと…古民家が見えてきました。
永井家住宅
軒先には、何やらモコモコとした植え込みのようなものが…
永井家の先に進むと、大滝があります。
山の上の薬師堂の脇から湧き出ている流れで、結構水量があります。
荻野家住宅
シリーズ前前前前回に取り上げた沢山城址。その城主(であったかもしれない)荻野家の末裔の親戚が江戸時代に住んでいた住居!
でも、この案内版には「荻野家は笠間藩の医家が出自で、当地に移り住んだ」と書いてある(荻野家は後北条氏家臣のはずなのに…?)
江戸時代、地域を守るために医療が必要であったことから、旧家者や名主の家系が医者になることが多かったようです。財も学もある旧家者らが、江戸や長崎に遊学、または近郷の医家で修行して村医となりました。他の地域から医師を呼び寄せたり、養子にすることも考えらえます。
この地域を治めた伊豆韮山代官・江川家は仁政で知られており、幕末の36代当主・英龍(坦庵)は、多摩の蘭方医ネットワークを利用して早くから種痘(牛痘)を実施し、天然痘の被害を防いだそうです。
(荻野衛門も牛痘に協力したのかな?)
実はこの蘭方医ネットワーク、後に自由民権などの新しい思想の導入にも大きく関わっていたと伝わっています。
そのため、正面から写真が撮れなかったので、こちらをどうぞ↓
自由民権の像
池の反対側から戻る途中に、大きな像がありました。
町田市制40周年を記念して平成10年に建立。
市内在住の造形作家、三橋國民氏の作品。
民権の郷・多摩
今回の散策がきっかけとなって、この本を読んでいます。
未完の「多摩共和国」新選組と民権の郷 佐藤文明(凱風社)
その中に、次のような一節がありました。
この本には、近世土豪たちからみた多摩地域の成り立ち、明治政府の誕生時の動揺、政府への不満から自由民権運動に駆り立てられるこの地域の苦難などが詳しく記されています。
近藤勇や土方歳三、彼らを取り巻く多摩地域の名主家のネットワークが手に取るように分かり、近世~近代の多摩地域への解像度が高まりました。
次回以降も、多摩の土豪たちを取り上げたいと思います。
自由民権資料館がやっていたら、それだけで満足して、見に来ることはなかっただろう野津田の地。
まさに、人生、万事塞翁が午。
次回は、近藤勇も駆け回った小野路に行きます。