見出し画像

埋甕(うめがめ)と胞衣笑い(えなわらい)

以前訪れた、恩田川上流の町田市「高ヶ坂遺跡」で見た柄鏡形敷石住居址。

八幡平遺跡 中央は炉の址
牢場遺跡の敷石住居址

柄鏡のような形と小石が敷き詰められている珍しい住居址で、縄文時代後期の一時期だけ、主に中部高地と関東に広まっていた形式です。
さらに調べてみて、興味深かったと同時に疑問に思ったことが一つあります。

それは、胎児や乳児の遺骨を納めた小さな甕(かめ)を、柄鏡形住居の出入口通路に埋める「埋甕(うめがめ)」という縄文時代の風習です。

埋甕とは

埋甕は、地面に穴を掘って土器を埋めた遺構のことで、縄文時代中期以降にたくさんみられるようになり、安房では富浦町深名瀬畠遺跡の住居跡内から出土している。埋められていた土器は、深鉢形のものが多く、口縁部を上におく正体が主流だが、逆位と斜位もあり一定ではない。
住居跡内の埋甕は、出入口に埋められているものが多いため、民俗例との対比から、胎盤をこれに収めて埋め、その上を踏むことで誕生した子のすこやかな成長を願ったという説がある。また、乳児の死亡率が大変高かった縄文時代に、死んだわが子の再生を願って、自分たちが住む住居内に埋めたという考え方もある。いずれにしても、埋設にあたっては、縄文人の信仰的な心の動きがあったと考えられる。

もともとは炊事用の甕だったものを、骨壺に転用したのでしょうか。子どもの死を悼み、甕に遺骸をしまって埋葬する気持ちは、現代人でもよく分かります。

しかし…それを玄関に埋める感覚が大いなるギモン!!


なぜ、玄関に埋めたのか?

縄文期の葬送やその解釈がまとめられている資料を見つけました。

再生への信仰?
■縄文時代の葬送法は土葬で、楕円形の土坑墓に手足を折り畳んで葬る屈葬が一般的だった。これは、伸展葬が一般的となった弥生時代以降とは対照的である。岩を胸に抱かせて葬る抱石葬がみられることもあるので、正常死か異常死かを問わず、縄文人は死者がよみがえってくるのを恐れていたという解釈がある。逆に、屈葬は子宮の中の胎児の姿であり、再生への願望をあらわしていた、という解釈もなりたつ。あるいは、たんに土を掘る労力を節約したのだという解釈もある。

■中期~後期の中部・関東に発達する環状集落は、中心に墓地、周縁に居住地という構造を持っている。死者を穢れたものとして周縁化するよりはむしろ、積極的な祖先崇拝のような観念があったことをうかがわせる。

■(縄文)中期以降には遺体を甕棺に入れて埋葬することもあったが、そのほとんどが胎児か乳児で、流産・死産の子を特別に葬ったと推測される。これにも、死んだ子を子宮=甕棺に戻して再生を願うという意味があったのかもしれない。

■縄文後期の関東でよくみられる柄鏡形住居(敷石住居)の入り口には、甕棺らしい土器が埋められていることが多く(埋甕)、胎盤、あるいは流産・死産児の遺体を収めたものだと考えられている。

■これを、死産児の遺骨を住居の近辺のトイレや玄関など、女性がよくまたぐ場所に埋葬して再生を願うという、近年まで残っていた風習と結びつける考えもある。

■長野県唐渡宮遺跡から出土した埋甕には、性器を広げた女性の姿が描かれている。そこから下に伸びる線は、赤ん坊にも見えるし、子どもの魂が立ち昇って子宮に帰っていくようにも見える。

蛭川 立 縄文文化の超自然観 より

どうやら女性が跨ぐ場所に胎児や乳幼児の遺骨を埋めることで、失われた命の再生(再び母親の子宮に戻ってくること)を願っていたようです。縄文後期に気候寒冷化が起こり、それに伴い死産や乳幼児の死亡率が上がって、縄文人たちは将来に不安を抱いたのかもしれません。

敷石住居は、その特殊な形状や住みにくさから、祭事施設ではないかという見解もあります。しかし、日常的に通る場所に埋甕を設置したのならば、敷石住居は生活の場だった可能性が高いとも解釈できます。このような風習からも、縄文時代の生活が類推できるのですね。

でも、それ以上に驚いたのが、「死産児の遺骨や胎盤を玄関やトイレに埋める風習が近年まで存在した」ということ。
…えっ?そんな話、今まで聞いたことが無い!


胎盤を玄関やトイレに埋める習慣

下記の引用にあるように、地域により様々な方法で胎盤(胞衣)は大切に扱われていたようです。
胞衣は「えな」「ほうい」と呼ばれ、後産で出た胎盤を容器に入れ、地面に埋めることを「胞衣納め」あるいは「胞衣笑い」といっていました。

胞衣(えな)には呪力があると信じられ、胎盤に願い文を添えて瓶に入れ、戸口の下に埋める慣習が古くからあったことが、奈良時代の「医心方」に詳細に記されています。戸口に埋めるのは、人の出入りが多く、胞衣をよく踏んでもらうほど児は丈夫に育つとか、賢い人になるなどと言われたからだそうです。また、臍脱した後は臍帯も大切に保管し、大病したときに煎じて飲ませると、命を取り留めるとされていました。産屋の出産では、胞衣は神様が処分してくれると考えられ、産屋内の石の下に埋められていました。地域や時代によっても異なるものの、明治中期に法律が公布されるまで、胞衣は甕(かめ)や壺、桶にいれ戸口や土間または山中などの土の中に埋められていました。
昔の人が胎盤に偉大な呪力を感じたのは当然と言えます。昔の人は出産した女性も家族も実際に胎盤に触れ、大切に扱っていました。

この風習は縄文時代にまで遡り、有史以降は奈良、平安時代、近世の記録が残っています。一般民衆だけでなく、高貴な人々の間でも行われていました。

埋める場所も玄関や便所、軒下や床下、神社など、地域ごとにバラエティに富んでいます。時代と共に埋納場所や作法に変遷や逆転(日陰→日なたなど)が起こっているのは、人々が母子の健康を願って試行錯誤をした結果なのではないでしょうか。

また、埋納に立ち合った人が作業中や終了後に声を立てて「笑う」と、新生児が憎まれずに健やかに育つという伝承もあり、これが「胞衣笑い」の語源となっているそうです。


民俗学的アプローチから日本人のルーツを探る

胎盤の扱い方(出産という原始的な営みに関わる風習)を調べることで、日本人のルーツを探る手掛かりになると考えている研究者もいます。

先史時代を研究する手法として、遺物(土器や石器、住居跡)による従来型の考古学的アプローチ以外にも、DNAを分析する遺伝学的アプローチ、言語構造や発音方式から調べる言語学的アプローチ、さらには、風習や伝承説話を比較する民俗学的学アプローチなどがあります。

地域の神話や昔話を調べ、同じストーリー形式を持つ地域をマッピングする研究もされています。
例えば、「オオゲツヒメ(体中の穴から食べ物を出す女神)がスサノオに殺された後、その体の各部から植物が生じる」というタイプの説話は、東南アジアから大洋州・中南米・アフリカなどに広く分布しているそうです。

多方面の観点から古代史に光が当たるとその分野が活性化しますし、思いもよらない所からブレイクスルーが起こるかも知れません。私にとっても「胞衣」に関する知見は、とても意義ある学びになりました。

【ご参考】
かつての信仰対象、その後 ー胞衣から考える信仰の転移

伊勢半本店 紅ミュージアム通信(2018年6月号) 
https://www.isehanhonten.co.jp/wp-content/uploads/2019/10/vol45.pdf

日本の胎盤(胞衣)処理の歴史
姚明希 我部山キヨ子 京都大学大学院紀要 健康科学 (2015), 10: 1-7
https://core.ac.uk/download/pdf/39323048.pdf

胞衣笑いの深層  一霊魂の交通一 
飯島吉晴 『比較民俗研究』10.1994/9
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/4466/files/4.pdf

平城京における胞衣埋納場所の選地 
山近 久美子 人文地理 第62巻第3号(2010)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg/62/3/62_231/_pdf

柿生文化165 初山遺跡の縄文中期のムラ跡と埋甕土器の謎 村田文夫
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2022/01/3d6cca3bb75cfd0f2d297b5cf2caa43f.pdf


現代では、どう扱われている?

現在では、当たり前ですが、胎盤は医療廃棄物として管理の下で処理されています。

東京都の胎盤の処理に関する条例
https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/kankyo/eisei/houi.files/houi.pdf

胞衣及び産汚物の取扱いにつきましては、胞衣及び産汚物取締条例(昭和 23 年 4 月 1 日条例第 48 号。以下「胞衣条例」という。)第1条の2及び同第 2条の規定により許可を受けていない者の胞衣及び産汚物の処理を禁止しています。
【用語の定義】
〇 胞衣(ほうい、えな)
胎盤、臍帯(へその緒)、卵膜及び妊娠 4 箇月未満の死胎をいい、「胎盤、臍帯(へその緒)、卵膜」は妊娠中絶、分娩に関わらず母体より排出されたもの全てを指す。

後に朝ドラのヒロインになる、清原果耶さんの演技が好評だったNHKドラマ「透明なゆりかご」。ドラマの「舞台ウラ」で、専門業社さんのお話が取り上げられています。


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。