近藤勇の墓 福島ジオ巡り旅(6)
前回の続きです(実際には1年半前の話です)
「ジオ巡り旅」と謳いつつ、2回連続で史跡巡りをしています。
土方歳三と会津
会津松平家墓所の入り口に「天寧寺500m」の標識があります。
なんと、この天寧寺に近藤勇の墓があるのだそうです。
えっ?近藤勇って、確か板橋で処刑されたはず。
なんで会津にお墓が…?
その疑問についてお答えするために、話を少し戻しましょう。
昨日泊まった東山温泉。
湯川沿いに東山温泉発祥の源泉があります。
ん?「土方歳三」戦傷湯治の岩風呂とな。
とにかく、土方はこの湯で傷を癒したようです。
「鳥羽伏見の戦い」後の新撰組
鳥羽伏見の戦いで敗れた新撰組は江戸に戻り、新政府軍を迎え撃つため甲府勝沼の戦いに臨みますが、そこでも敗走。新たに流山に陣を張るも、新政府軍に包囲されてしまいます。
結成時からの腹心の離別もあり、近藤はこれ以上の抵抗は意味無しと判断し、投降を決意。その後、板橋で処刑されてしまいます。
一方、土方は斎藤一に新撰組を託し、会津へと向かわせます。自らは近藤の助命嘆願を試みるため(諸説あり)江戸に向かうも、江戸城が新政府軍に明け渡されたため、幕臣大鳥圭介の軍に合流。その後、宇都宮の戦いで足を負傷してしまいます。
やっとのことで会津に逃れ、傷を癒したのが、この東山温泉でした。
こちらには3か月ほど逗留したそうです。
この間、土方は、京都守護職として新撰組と強い繋がりのあった松平容保に願い出て、近藤の戒名を貰い天寧寺に墓を建てました。
各地にある近藤勇の墓
有名人あるあるですが、近藤勇の墓は各地にあります。
由緒があり、特に有名なお墓は次の3か所。
東京都板橋区にある供養塔
処刑された場所の近くです。
三鷹龍源寺
生家近くにある近藤家菩提寺の墓です。
(刑場近くに埋葬された遺体を掘り起こして改葬したとの伝承も)
そして残る一つが、この天寧寺にあります。
天寧寺
お寺は山の中腹にあり、坂道と趣きのある石階段を登ると、
開けた場所にでます。見晴らしが良いですね。
近藤の墓は、本堂から離れた山の中ほどにあります。
檀家さんのお墓の区画を通り過ぎたその奥に、
細い山道があります。
木々の間から見ると結構高さがあります。
会津に身を寄せた土方は、京都で新撰組を指揮していた会津藩主・松平容保に頼み、会津城下を見渡すことができるこの場所に、近藤勇の墓を建てました。
近藤の遺髪を埋葬したと伝えられていますが、板橋で処刑後、京都三条河原に晒されていた近藤の首級を持ち帰って埋葬したとの言い伝えもあるそうです。
近藤勇の墓
自らが信じる義に殉じた、男の生き様を感じる句です。
石碑から数段上がった所に、仲良く2つのお墓が並んでいます。
以前の土方歳三慰霊碑は木製で、近藤の墓の右側に位置していました。傷みが激しくなったとのことで、2020年に新調されました。左側に移された理由は、近藤が刀を抜いた時に、土方に当たらないようにしたからだそうです。
現在の墓石は土方が建てたものではないのだそうですが、正面には近藤家の家紋「丸に三つ引き」と松平容保が授けた「貫天院殿純義誠忠大居士」の戒名が刻まれています。
「院殿大居士」は歴史上の有力武将に与えられるような立派な院号。人柄を表すという道号には「純義」、そして戒名には「誠忠」。
容保は、忠義を尽くして仕えてくれた近藤の戒名に、最大限の感謝の気持ちを込めたのかも知れません。
冬になれば木の葉が落ちて、眼下に城下町が広がる見晴らしの良い場所です。
土方は、墓の築造に毎日のように立ち合ったと伝わります。盟友の為に立派な戒名と墓所を得る事ができ、土方も心安らいだのではないでしょうか?
かつて墓を守るように一本松が立っていましたが、害虫被害で枯れて伐採されてしまいました。しかし、ちょうど戊辰150周年の年に、再びその根元から新芽が生えてきたそうで、現在二代目として大切に育てられています。
近藤勇の墓は各地にあれど、土方歳三が手を合わせることのできたのは、この墓だけです。
その後の土方歳三
会津戦争の敗色が濃厚になると、土方は庄内藩へ援軍を求めます。しかし、入城さえも叶わず、仙台へ向かうことを決意。一方、斎藤一らは恩義ある会津に留まることを選び新撰組と訣別、後に会津藩士となりました。
その後、土方は北海道に渡り、箱館戦争で壮絶な死を遂げましたが、その遺体は不明とのことです。
土方の墓は、生家近くにある東京都日野市の石田寺にあります。
慰霊碑は、天寧寺の他に、最期の地・函館市に2か所あるそうです。
会津に眠る戦士たち
会津戦争は、義に篤く勇敢な会津藩士と、「錦の御旗」の威信を掛けた新政府軍との激しい戦いでした。多くの藩士や家族、領民たち、旧幕府軍と新政府軍の双方がこの地に眠っています。
彼らの埋葬場所を実際に見ることが出来なかったので、まとめました。
天寧寺
会津戦争の責を問われた松平容保親子の身代わりとして、自らの命を差し出した家老・萱野権兵衛の墓もあります。
新政府は容保の代わりに3名の上席家臣の処断を要求。しかし、会津戦争で上席3名が戦死または不明となっていたため、それに次ぐ萱野が、その一身で全ての責を負い処刑されました。(訪問時には萱野権兵衛のことを知らなかったので、お墓まで行きませんでした。非常に悔やまれます)
他にも、家老の田中土佐らの墓があります。
飯盛山 会津少年兵・白虎隊の墓
こちらには20代の頃に訪れました。その時は、鶴ヶ城近くに上がった火の手を、落城と見間違い自刃したとの説明板がありました。
しかし実際には、戦闘中に行き場を無くし飯盛山まで辿り着くも、負傷者のいる状況で城下に入り、過って捕虜となることを潔しとせず、自刃を決意したそうです。数えで16〜17歳の若者達でした。
善龍寺 西郷頼母の家族の墓・なよたけの碑
家老・西郷頼母の家族で、自刃した婦女子を含む21名の墓があります。
頼母の家族と同様に、足手まといになる事を恐れ、また貞節を守り抜くため、多くの会津藩士の婦女子が自刃しました。
東軍墓地
当初新政府は、藩士らの遺体を罪人塚に埋葬すること、賎民(被差別部落民)に担当させることを命じました。しかし、遺体の扱いが酷く、埋葬も不完全なものだったそうです。元藩士の町野主水は粘り強く交渉を続け、阿弥陀寺への改葬が許されたそうです。
後に明治政府の警察官僚となった斎藤一の墓も、こちらにあります。
長命寺ほか 会津藩士埋葬箇所
遺体の扱いが酷かったため、伴百悦ら生き残った藩士が自ら賎民に身を落とし、戦友の遺骨を収集したと伝わります。
※ 新政府が戦死者の埋葬を拒んだという説が流布していますが、一部の話が全体で行われたと誤解されているという説もあります。
東明寺 西軍墓地
同じように、新政府軍も多くの犠牲者を出しました。
新政府軍の屯所だった融通寺の隣にあります。東明寺は道路拡張のため移転したので、元々の墓所の敷地が東明寺なのだと思います。
薩摩、長州を始めとする新政府側150名が埋葬されており、墓所内に入ることはできないようです。
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あの時代、新政府側も幕府側にも、同じように高い志を抱いた若者たちが存在しましたが、一体、何が彼らの生死を分けたのか不思議に思います。
箱館戦争で投降した旧幕府軍の幹部(榎本武揚や大鳥圭介ら)は、3年ほどの投獄の末釈放され、後に明治政府の要職を歴任します。旧会津藩士の面々も辛い日々を送りましたが、謹慎が解けると明治政府の人材として活躍する者も現れました。
しかし一方で、その職位と比べて非常に重い責任を負わされた者も、また多数いたのでした。
新しい時代を作るために、赦された命と赦されなかった命。
名のある者を助けるために散った、名も無き無数の命。
150年の時を経て、今も静かに会津の地で眠っています。