佐江戸杉山神社 佐江戸城址
今回は、杉山神社と佐江戸城址巡りがセットでお得!
前々回に引き継ぎ、鶴見川中流域の終点、佐江戸町を散策します。
ここには、杉山神社と中世の城が同居している佐江戸城址があります。小机城との関係や後北条氏家臣の猿渡氏など気になることがいっぱい。
鶴見川から出発。落合橋から中原街道を右(下流から見て)に進むと、人気そば店「味奈都庵」が見えます。後方の高台のさらに先が目指す場所。
台地のヘリに沿って中原街道を進むと、急に片側一車線の細道に。中世の街道がそのまま車道になった雰囲気です。(歩道も路肩も狭いので要注意)
無量寺
コンビニを過ぎ、その先のバス停「神社前」の交差点を左折。
すると、坂道の先に立派な石造の門がお出迎え。こちらが高野山真言宗寺院・無量寺です。
隣接する佐江戸杉山神社の別当寺かと思いましたが、こちらは青砥杉山神社の別当。創建は不明、慶安2年(1649)徳川家光より寺領6石余を拝領しています。
鎌倉時代中期には無量寿福寺(尼寺)が存在していた記録があり、その時代から継承されているとすれば、かなり古いお寺。
正面に鰐口と賽銭箱があり、一見すると神社のよう。三つ巴(八幡神社=鎌倉幕府)と五三の桐(足利氏→豊臣氏へ下賜)が共存していて不思議な感じがします。
墓地の入り口が工事中だったので、杉山神社に向かうことにしました。
佐江戸杉山神社
無量寺のすぐ上が杉山神社です。
鳥居の後ろには、おなじみの階段が…
記念碑には、関東大震災で被災した神社を地域の人たちの献身で再建したと書かれています。
境内に到着。
お約束の見返り階段。右側には大きな木が茂っています。
拝殿
かわいらしい木造の拝殿。お祀りされているのは五十猛命。
境内社
稲荷神社が祀られています。
本殿脇の石碑
境内から小机城は見えるのかな。方向的にはパナソニックの奥に見えるマンション群の先だと思うけど、建物で隠れてしまったのだろうか?
武蔵風土記には「古そう」としか書いていない。戦国時代に、佐江戸城主の猿渡氏が杉山神社を勧請したという言い伝えがあります。
佐江戸城址
グーグルマップでは、杉山神社の隣に「佐江戸城址」のマークがついてます。
私が気になることは大概「はまれぽ」さんも調べているんですけど、それでも負けずに(対抗心?)いざ、登城!
神社の裏参道から右に沿って高台へと登ると…
土塁っぽい構造物がある。
本丸跡か?
さらに進むと、広々とした畑が両側に見えてきました。
この先道が狭くなり、民家が並ぶ行き止まりのように見える。
神社の集会所にお年寄りがいたので城址について尋ねてみたけど、誰もお城があった事さえ知らなかったんです。地元にも伝承が残されていないらしい。江戸時代、後北条氏の城は廃城になり歴史から消し去られてしまったからなのかな?
とりあえず、先へ進んでみよう。
すると細い道が続いていて、台地の先端に出た。下りの急坂だ。
降り始めると…あっ、はまれぽの画像と同じ場所!
中に石碑が見えます。
御嶽三柱大明神の碑。
明治元年以降、何らかの災害が続いたので御嶽教の行者に頼み勧請したようです(たぶん)。礎石に「登山」とあるので、富士講みたいな山岳信仰なのかな。
お城とはあまり関係無かった…。
石碑は生垣に囲まれている。「はまれぽ」さんによると、この辺りが本丸とのこと。
下から見ると、結構な斜面ですね。
北西角の城壁
中原街道まで降り、城址沿いに北側に回り込み、県道12号(横浜上麻生線)「石橋」交差点につきました。
ここは佐江戸城の北西角の城壁らしい。
この地点が標高17m、城壁の頂上が35m。
佐江戸城の立地
佐江戸は下末吉台地、その北にある加賀原からは多摩丘陵。
佐江戸城は鶴見川沿いの台地の上で、中原街道と町田に続く道(現・横浜上麻生線)の二つの街道に面しています。明治期の地図で、街道に沿って家々が立ち並ぶ様子からも寺社町、宿場や馬継であった名残りがうかがえる場所です。
北隣りも東漸寺があり、まるで城の周りを寺社仏閣が護っているよう。
時代を遡って、鎌倉時代も見てみよう。
佐江戸城も榎下城も、まさに中世のJCTといった場所。江戸時代には馬継場として栄えていたようです。
佐江戸城の縄張り
地理院地図の陰影図で、人工的と思われる凸凹を見てみます。
城の北側には竪掘らしき溝があり、南西には切り欠きらしい跡もある。城の南側と北側に土塁らしき跡が見えるが、耕作で地形が変わっているかも知れない。
赤点が御嶽三柱神の碑。その辺りが本丸というのはちょっと疑問。少し低くなっていて、街道側からも攻められ易そう。
断面図
比高が20mほど、台地上の南北距離が最大90m。
あまり大きな城ではないけど、平面なので住みやすそう。
東西に切ってみると東の稜線はなだらかで、街道からは30mの高さ。戦うための城というより、監視用の城に向いているのでは。
佐江戸城の規模
城址の南西側にも台地(赤い丸)が広がり、それを含めた台地全体がお城だった可能性を示唆する人もいます。しかし、そうだとすると茅ヶ崎城や小机城の規模を大きく上回るので、ちよっと不自然。
さらに佐江戸の北の加賀原には大丸、二の丸、三の丸の地名が残り、それを「池辺城」の跡という人もいるけど、城全体の規模が非常に大きくなるので、郷土史家も城の由来の地名ではないと考えているようです。
ただ、小机城や茅ヶ崎城よりも交通の要所にあり、大きな城が作れそうな場所なのに、出城しか作らなかったのが不思議です。大きな街道沿いで標的になり易いから、主力の城はすこし奥まった場所を選んだとか…?
佐江戸城の歴史
小田原衆所領分限帳には「佐江戸、猿渡氏48貫文」との記載があり、小机衆の猿渡内匠助が佐江戸城を築いたとされます。街道と宿場の監視、伝えの城としての役目を負っていたと推測されています。
しかし、猿渡内匠助は1573(天正元)年に亡くなり、その長男の盛正は1590(天正18)年の小田原征伐の時に八王子城で戦死。その後、後継者となった盛道が、1591(天正19)年に徳川家康から五百石の寄附を受け、猿渡氏は佐江戸城を離れたようです。
500石…御家人にならなかった後北条氏被官に対しての俸禄としては破格の待遇。武蔵国総社の大宮司家への敬意が、家康にもあったのでしょうか。
猿渡内匠頭の墓が無量寺にあるそうですが、工事中だったので見ることができませんでした。元は御嶽三柱神碑の場所にお墓があったそうです。
猿渡氏は、今も大国魂神社の神主家。
内匠助の子孫である盛章とその息子・容盛は、幕末そして明治期にかけて国学者。盛章は西八朔杉山神社の記事でも触れた通り、杉山神社の式内社探しに奔走していました。
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実家の隣が神社だったんです。
同じくらい歳の子がいて、子どもの頃から悪戯をする事も許されず、このご時世に進路も職業も自由にならないのを見て、何となく気の毒に思っていたのですけど…。
今は宮司となり、地元から信頼される人物に。約束された地位とはいえ、若いうちは周囲の目が厳しいし、先代が早く亡くなられたのでご苦労も多かったはず。普通のサラリーマンではとても務まらない重責です。
歴史における血の力は侮れません。
連綿と続く伝統を歴史と共に守る家の方々に、心から敬意と感謝を。