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安徳天皇陵が水没の危機?


天皇陵が水没の恐れ?

暇つぶしにネット記事を見ていたところ、衝撃のニュースを目撃しました!

源平合戦の最終地、壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇(1178~85年)が埋葬されたとの伝説が伝わる下関市豊田町地吉にある宮内庁管理の西市御陵墓参考地。山口県が計画している木屋川ダムのかさ上げに伴い、洪水時に同参考地の約8割が水没する見通しであることが分かった。

安徳天皇の陵墓は同市阿弥陀寺町の赤間神宮内にある「阿弥陀寺陵」だが、宮内庁は具体的な被葬者が特定されていないものの、天皇や皇族の墓の可能性がある場所を陵墓参考地として管理している。安徳天皇と伝わる陵墓参考地は下関のほかに長崎、熊本、鳥取、高知の全国5カ所に存在する。

西市御陵墓参考地は木屋川ダムのダム湖、豊田湖湖畔にたたずむ。域内は樹木が密生し、入り口には厳重な冊と立ち入り禁止を知らせる宮内庁の札があり、厳粛な雰囲気に包まれている。近くには全国的にも珍しい「天皇様」のバス停もある。宮内庁によると、陵墓の形状は石積みで、全体の面積は2831平方メートル。既往の調査はないという。  

建立されている由来碑などによると、壇ノ浦の戦い後、源氏は漁師を動員して入水した安徳天皇とともに沈んだ三種の神器の宝剣を捜索させたが見つからず、安徳天皇の遺体が網にかかった。ひつぎに移して運んでいる途中、豊浦と大津の境でひつぎが突然動かなくなり、近くの小高い丘に埋葬することになったとされる。  

県は沿川地域の浸水被害の防止や水利用の安定化などを目的に、木屋川ダムを10メートルかさ上げする再開発事業を進めている。現行41メートルのダム堤高を約51メートルにかさ上げし、貯水容量を現在の2175万立方メートルから約3835万立方メートルに増やし、洪水調節容量約1750万立方メートルを確保する。2039年度のかさ上げ完了を目指している。  

県河川課や宮内庁によると、ダムのかさ上げ後も陵墓参考地へのアクセスは確保する。ただ、洪水時に貯留できる最高水位まで達した場合、参考地のうち、自生した樹木が密生する樹叢(じゅそう)の83・4%が水没する見通し。樹叢の植生も変化する可能性があるという。  

同参考地を管理する宮内庁は山口新聞の取材に対し、「山口県と保護対策について協議している」と回答した。

山口新聞 上記リンク記事より

実は、数年前にこの西市御陵墓参考地を訪れたことがあるので、とても気になります。ちょっと色々調べてみました。


安徳天皇について

平清盛の孫にあたる安徳天皇は、数え年3歳で父・高倉天皇から譲位を受け即位。清盛の外戚政治が強まり、平氏の栄華が極まった時期です。

その一方で、朝廷や各地の武士たちの清盛への反発も大きくなり、やがて源平合戦が勃発。その渦中で清盛の病没すると、急に旗色は悪くなります。平氏は西国へ敗走を続け、ついに壇ノ浦の合戦で力尽き、幼い安徳帝は祖母らに抱かれ入水したのでした。

わずか数え年8歳の崩御。
「浪の下にも都の候ぞ」(波の下にも都がございますよ)
祖母はこのように幼い帝を慰めたと、平家物語は伝えています。


安徳天皇陵について

壇ノ浦の戦いの翌日、漁師達が網にかかった安徳天皇の遺体を引き上げたそうで、亡骸は近くの阿彌陀寺に埋葬されました。宮内庁は、安徳帝の陵墓を下関市阿弥陀寺町の赤間神宮境内にある阿彌陀寺陵に指定しています。

阿彌陀寺陵

竜宮城みたいに立派な赤間神社
やはり、竜宮城感…
神社境内の左手に
阿彌陀寺陵がひっそり佇んでいます

しかし、悲劇の幼帝を憐れんでか、各地に「安徳天皇落ち延び伝説」が残っています。そして阿彌陀寺陵以外にも、各地に陵墓参考地が存在します。

宮内庁指定の陵墓参考地

  • 山口県下関市豊田町 「安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」

  • 鳥取県鳥取市国府町 「岡益の石堂」

  • 高知県高岡郡越知町横倉山 「鞠ケ奈呂陵墓」

  • 長崎県対馬の厳原町久根田舎 「佐須陵墓参考地」

  • 熊本県宇土市立岡町 「花園陵墓参考地」

そのほかにも、大阪府豊能郡能勢町、徳島県三好市東祖谷栗枝渡、熊本県上益城郡山都町、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島に、伝・安徳天皇陵が存在するようです。
【ご参考】


安徳天皇陵(西市御陵墓参考地)

こちらが、水没の恐れがあると言われる安徳天皇陵です。

山口県西部を旅行したときに立ち寄りました。

豊田湖に面した山深い鄙びた道路沿いに、立派な石柱の門が立っています。

湖畔に日章旗が掲げられ、手前に「御陵墓伝説地」の石碑。

宮内庁の立て看板がある

御陵墓の墳丘へ続く階段とその前の門。
キラキラしたクリスマスのような飾りが、門扉に備え付けられています。安徳帝が寂しくならないよう、地域の方々がいつもお慰めしているのですね。

御衣洗の池と古刀出土の址を記す木製の杭

御衣濯の池 左前方凡三十米崖下湖底
古刀出土の地 正面前方五十米湖底内数本出土

豊田湖は木屋川を堰き止めてできたダム湖で、御衣洗の池も古刀出土の址も、今は湖の底になっています。

もともと木屋川の淵は、墳丘から少し離れていたようです。
ダムの完成が1955年。地理院地図で、この地域を撮影した最も古い航空写真(1960年代)を見ても、既に周囲は湖でした。

赤い点線の内側に元の汀線が透けて見えます

地理院地図上では墳頂標高107m、周辺低値の標高が95〜100mなので、比高が7〜12mと推測されます。

下の案内板では前方後円墳風に見えますが、航空写真では陸側の尾根は木が切られているので、赤い点で示した湖側のマウントのみが、陵墓の範囲なのかと思います。

後述の「御衣洗の池」「網掛之森」「烏賊之淵」の場所も記載されている


安徳天皇御陵墓伝説地由来碑

御陵並に御篭建場由来碑
寿永四年三月二十四日、壇ノ浦の海戦あり 午刻平氏敗頽 安徳帝二位禅尼御抱きて入水 源氏方百万捜索せるも発見せられず 因って沿岸浦人を召して捜索中沢江浦人の網に御尊骸掛りたれども神剣なし 義経心あらずや網の侭御棺に移して潜幸紀民部大輔光季守護し奉り沿道を猿山庄司に命じ義経御奉送のため野陣を今の法ケ原に進出 豊浦大津の郡境にて御棺微に動かず 因って南方奇しき地形の小丘此処に埋葬し奉る 御棺の動かずなりし所を後人御篭建場と称す 

網掛森 烏賊ケ渕由来
御尊骸と共に送りし網の穢れを渕にて洗ひし時 いか二尾渕の深みに生きかえり、宝歴年中まで御祭事当日姿を見せしと伝ふ 網は田圃中の小森にかけ之が後世網掛森、渕はいかが渕と云ふ

御衣洗池の跡由来
御尊骸の御衣の穢れを此の池水で洗ひ清めしと伝ふ

「網掛之森 烏賊之淵」の碑

網掛之森 西方一八〇米
烏賊之淵 西方二五〇米

安徳天皇の遺体は漁師の網にかかって引き上げられましたが、その網は一緒にお棺に納められ、ここまで運ばれたそうです。

その網を川の淵で洗ったところ、イカが2匹生き返ったそうで、その時網を掛けた森を「網掛之森」、網を洗った淵を「烏賊ヶ淵」と名付けました。これらの場所も、今は湖の底に沈んでいます。

木戸孝允の五言絶句の碑

安徳天皇陵を参詣した木戸孝允が、近くの光雲寺で詠んだ漢詩

渓流巻巨石 (渓流巨石を巻き)
山岳半空横 (山岳半ば空に横たう)
寿永陵辺路 (寿永陵辺の路)
断腸杜宇聲 (断腸杜宇の声)

〈現代語訳〉
ごうごうと音をたてる水は 巨石をかみつくように流れ
山々は累々として 天の半ばに横たわっている
今こうした景観の地 安徳帝陵の道を通っていると
突然 ほととぎすの美しい音色が聞こえてきた
が その声は腹わたをえぐるようなひびきに聞こえた


本当に安徳天皇陵か
ただ、壇ノ浦で亡くなった安徳帝を、ここまで運んで埋葬したのだろうか…という疑問は常にあります。

歩いて10時間かぁ…

「海の近くでは入水の悲劇を思い返してしまうから可哀想」とか、「日本海側から京まで運ぼうとした」とかは考えられるけど。もっと合理的に考えれば、古墳時代のこの地域を治めた豪族の墳墓かもしれない。

でも、それを言っちゃおしまいよ!

幼い帝の死を多くの人々が悲しんだから、各地に落ち延び伝説が残り、各地に陵墓が祀られているのだもの。信じる人々がいる限り、そこが安徳天皇陵なのです。


ダム堤嵩上げの影響を調べる

さて、いよいよ本題。地理院地図の自分で作る色別標高図で、洪水時の水位をシミュレートしました。

赤丸で囲んだ所が天皇陵。木屋川ダムのダム堤の標高が地図上では約95mなので、105mで冠水する部分を水色になるように設定したところ、図のようになりました。

うっすらと残る緑の部分が墳丘上部。その標高が地図上では107mだったので、ダムが満水になると、小さな島のようになってしまうかも知れません。


ダム改修をする理由

木屋川(こやがわ)水系は延長43.7 km、流域面積299.8 ㎢の県内有数の河川。本流は2つのダムを経て、下関市小月で周防灘に流れ込みます。

上流は長門市、中下流は下関市と美祢市にまたがり、流域人口は2万人を数えます。

近年多発する豪雨災害
2010年の豪雨災害では、木屋川流域で洪水と浸水被害が発生。

下関市洪水ハザードマップ

近年激甚化する豪雨災害に対応するため、水系全体で治水事業を進めているようです。

木屋川水系流域治水プロジェクト


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安徳天皇の人気は高く、関連遺跡を訪れる歴史ファンも多いと言われてます。その御陵は、歴史的にも、お祈りの場としても、観光資源としても重要な場所なので、宮内庁と山口県は保全に向けて協議をしているようです。

ダム堤を嵩上げしても陵墓へのアクセスは確保されるそうですが、陵墓は建築物と異なって移設できるものではないので、保全の方策は難しいものになると思われます。

浸水を防ぐために陵墓の周囲を堤防で囲えば、水辺に佇む幽玄な風景が失われてしまいそうで、それもまた残念な気がします。


それにしても、実年齢わずか6歳で海へと散ってしまった安徳天皇のお墓が、1000年近くの時を経て、まさか地球温暖化の影響で再び水害に脅かされるとは…
なんとも切ないお話だと思いました。


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とぅーむゅらす
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