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中世の城 茅ケ崎城址(1)

以前、大塚歳勝土遺跡を散策した際、グーグルマップさんが「近くに城址公園がある」と教えてくれたけど、当時は興味がなかったのでスルー。しかし、小机城をきっかけに中世城址にハマったので、遅ればせながら行ってきました。

ニュータウンの公園だからといって侮るべからず。
これほどまでにキレイに城郭が残っているなんて!

ところで…
「茅ケ崎のがデカくない?間違ってるでしょ」と思った方、はまれぽさんのこちら記事をどうぞ。


茅ケ崎城址公園

勝田杉山神社の記事で登場した最乗寺からスタート。

早渕川南岸の台地周縁に沿ってセンター南駅方向へ。
標識がないので、グーグルマップ頼り。

庚申塔とお地蔵様

不規則な五差路に出たら、この祠が目印。
祠の前の急坂道を自転車押して登り切れば、あっ、緑の土手が...

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あれっ「ケ」が小さい…?

ここが茅ケ崎城址公園か。入ってみよう。

案内板があるぞ!


茅ケ崎城の歴史

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こっちは「ケ」が大きい…

茅ケ崎城は、平安時代(治安年間:1021~1023年)に多田行綱が築城したという伝承がありますが、発掘調査では14世紀末〜15世紀前半に築かれた中世城で、16世紀前半に後北条氏による改修があったと推定されています。しかし、今のところ出土遺物は扇谷上杉氏(室町時代)に関する物ばかりで、後北条氏時代の遺物は発見されていないようです。

「小田原衆所領役帳」によれば、茅ケ崎一帯は小机衆の座間氏の所領だったことから、小机城の支城として座間氏が城代を勤めていたと推測されます。
小田原征伐後には廃城になり、江戸時代には村の入会地となりました。


古代の茅ケ崎
茅ケ崎城址には、中世の遺跡だけでなく、弥生から平安時代の遺跡も存在するようです。また、城址公園の近くにある茅ケ崎東れんげ公園には、茅ケ崎貝塚(縄文期)があったようです。


城の立地

街道との関係
茅ケ崎城は、神奈川湊と武蔵府中を結ぶ往還の抑えとして設置されたとのこと。その詳細は分かりませんが、想像するに以下のようなルートだろうか?

神奈川湊〜小机〜佐江戸〜茅ケ崎〜荏田〜溝の口〜登戸〜府中

それではジグザグすぎるので、篠原から鶴見川ー早渕川沿いにショートカットするルートがあったのか…?

とにかく、主要街道に睨みを効かせる重要な支城だったようです。


地形との関係
ニュータウン地区は開発で平滑化されているので、当時の地形は古地図や古い航空写真で想像するしかありません。

上の赤丸が茅ケ崎城、下は小机城
右の黄線は中原街道、左は厚木街道

茅ケ崎城は西側から続く舌状台地の突端で、北は早渕川の氾濫低地、南東と南西から切れ込む谷戸筋で囲まれています。

左は地理院地図に「明治期の低湿地」を合成した図
右は航空写真1961〜69年

上図で十字の印がある場所が城址公園。
左図で黄色に塗られ部分は明治期の低湿地で、右の航空写真では田畑になっている場所。かつて、天然のお堀のような役割を果たしていたのだろうか?


城郭の概要

現存は中郭をはじめ東、西、北の全4郭。

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こっちは「ケ」が小さい…

15世紀後半(戦国時代の始まり)に最大規模の構えとなったようで、当時は他にも東北郭や腰郭、南北に多数の平場を備えた城でした。

最大時の城郭

堀と土塁の配置
茅ケ崎城は、それぞれの郭が土塁と空堀でハッキリ仕切られています。

埋文よこはま33 横浜の中世城郭 より

地形図
茅ケ崎城はギリギリ下末吉台地。ここから西は多摩丘陵が広がっている。

地理院地図で標高を見てみよう。

【おことわり】
記事内で「*」のついた数値は地理院地図上での計測値です。公式に測量された値でも、当時の城郭の高さを表すものでもありません。

南側に向かって三段構造(現地形は開発の影響もあるか?)。元から段丘状だった地形を整えたのだろうか?それとも、丘陵地を切り出し、排土でテラスを作ったのだろうか?だとしたら、大変な土木作業だ。

氾濫低地から東北郭まで10m*弱の比高。そこから北郭、さらに中郭までの高さははそれぞれ5m*ほどある。

麓の低地から一気に30mも上がる小机城に比べると、段々と高度が上がっていく茅ケ崎城なら、城攻めの糸口はありそうだ。でも、それぞれの郭が広くて攻略に時間がかかりそう。

小机城は、攻略そのものが難しい無理ゲー。茅ケ崎城は、各ステージでの消耗が激しく、ラスボスにたどり着く前に、ライフが0になるタイプのゲームかも知れない。(良い例えなのだろうか?)

東西の断面図には空堀の跡がハッキリ残っている。西郭と中郭の標高は33m強*、東郭は36m弱*。広い台地を南北に3つに区切ったようだ。城の南西側の土塁が、他に比べて高くなっている。

城郭の変遷

茅ケ崎城は14世紀末~15世紀前半の築城と推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなります。さらに、16世紀中頃には二重土塁を備える改修がなされました。城郭の変遷には、時の支配者、関東管領上杉氏や後北条氏の影響があったと思われます。

築城当初(14世紀末~15世紀前半) 古(1・2)期の図参照
東西2つの郭のみ。

15世紀後半 最大時の城郭図参照
西郭・中郭・東郭・北郭の4郭※。
土塁の改築と空堀の堀り直し。中郭の南東部に倉庫らしき遺構。
城主 関東管領上杉氏

16世紀中頃 新(3)期の図参照
南側に二重土塁を巡らせ防備の強化(後北条氏の独特の築城法)
中郭の東寄りには新たに「中堀」も建設。
中堀の脇に土塁が見られない点から未完成の可能性。
城主 小机衆の座間氏や深沢備後守という説

※園内の説明板の文章には、東北郭について言及されていない

茅ヶ崎城の南側の山すそから、14、15世紀のものと考えられる常滑産の蔵骨器や板碑が発見されている。墓地に伴う出土品は、平時の生活拠点エリア「根小屋」が形成されていた可能性を物語る。

中世城郭は軍事拠点だけではなく、戦時における地域避難施設でもあった。城内には籠城に備えた食べ物を貯えられ、井戸も掘られていた。また食料になるように植物も植えられ、管理されていたと考えられる。(城址公園案内板から要約)

【ご参考】
茅ヶ崎城址埋蔵文化財本発掘調査報告 pdf 78ページ
2006 横浜市環境創造局/横浜市ふるさと歴史財団


話が長くなりそうなので、ここまでを前編とします。

後編は、いよいよ城郭を散策します。


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今回は、都筑区役所の見解に従って、表記を「茅ケ崎」に統一しました。
しかし、同じ横浜市でも土木事務所や教育委員会は「茅ヶ崎」…一体、どっちなの?本当に、地名表記は難しい。


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