見出し画像

マルクス経済学における、疎外と剰余価値法則の論理

この論考における主張

マルクスのテキストの読解において、現代でもなお主流となっているのは、前期マルクスと後期マルクスとの断絶という主張だよ。これは特に、前期の疎外論から後期の物象化論へという流れとして語られることが多いよ。しかし、私は資本論における価値論と、マルクス経済学における、経済を分析する上での最小単位である商品の特性に着目した場合、「経済学・哲学草稿」において主張された資本主義社会において人間に起きる4つの疎外

(1)労働の対象化されたものが人間主体から自立し、対立的に現れる(労働の成果からの疎外)
(2)労働は生の目的でなく手段となり、人間らしい生活が労働以外の場に求められる(自己疎外)
(3)人間の存在を個人的な現存の手段にしてしまう人間の普遍性の疎外(類からの疎外)
(4)人間の人間からの疎外。

が、労働過程が資本家的生産過程として行われるという初期の主張が論理として貫徹されており、後期の剰余価値体系の完成などによって分析はより緻密となったという仮説を元に、立証していくよ。また、このことの立証により、資本主義的生産様式において発生する疎外という現実に対する論証となると同時に、数理マルクスにおいて実証されているマルクスの基本定理(正の利潤を発生させるような価格ならどんな価格であったとしても(つまり投下労働価値に比例した価格であろうとなかろうとも、また均等利潤率をもたらす生産価格であろうとなかろうとも)、そのもとで労働が搾取されていること)の論理として、労働疎外の現実が措定されているという事態を裏付けるものとなるよ。そして、このことは、資本主義生産様式の一般的な特徴としてのマルクスの有効性を支持する理由とすることができると思うよ。

公理1

商品とは資本主義経済を構成する最小単位である。

定義1.1

資本主義経済において、経済活動を支配するのは資本家である。また、商品の生産やそれに対する価値の付与をするのは労働者であり、資本家は労働者を雇用し、商品を生産させるという関係で、社会の経済的な人々の諸関係は存在している。これを、資本主義的生産様式と呼ぶ。

定義1.2

商品とは社会の経済的諸関係や労働過程(社会の平均的な労働時間)を価値として凝固させた、感性的に触れることができない観念物であり、なおかつ客観物であり、これを抽象的人間労働と呼ぶ。

定義1.3

商品は、人間の具体的な労働(例えば、雑穀米から機械などによって白米に加工したり、様々な部品をラインに乗せて組み立てることで、機械へと加工したり)によって付加された価値を凝固させた対象としての、労働者から見た場合の主体的な成果物であり、これを具体的人間労働と呼ぶ。

定理1.1.1

公理1と定義1.2および定義1.3より、商品には客観物である抽象的人間労働としての姿と、主体的な成果物である具体的人間労働としての姿との2つの側面がある。また、定義1.1より商品は資本主義的生産様式によって生産される。そして、定義1.2より、商品は社会の経済的諸関係や労働過程である社会の平均的な労働時間を価値として凝固したものとして存在している。そのため、定義1.3の具体的人間労働において生産される商品を、生産し価値を付与するために必要とされる労働時間は、抽象的人間労働において規定されると言える。

定義1.4

資本家である雇い主によって定められた、労働者がはたらく時間であり、そのうち生産された商品に付与された価値のうち、資本家の取り分となる価値を生産する労働およびその時間のことを、剰余労働並びに剰余労働時間と呼ぶ。また、資本家の取り分となる価値は剰余価値と呼ぶ

定理1.1.2

定義1.1と定義1.4より、経済活動の支配者である資本家は、剰余価値の取得のために労働者を雇用し、剰余労働をさせる。また、この一連の過程においては、定理1.1.1より、抽象的人間労働によって規定された形で、具体的人間労働は行なわれる。

定理1.1.3

定理1.1.2より具体的人間労働は抽象的人間労働によって規定された上で、存在している。そして、それは、経済活動の支配者である資本家による剰余価値の搾取のための剰余労働の過程の中で行なわれる。このことから、定義1.3にある具体的人間労働によって得られる主体的な成果物としての商品は、定義1.2にある抽象的人間労働としての商品に包括されたものとして存在すると言える。

定義1.5

労働者によって担われた、主体的な成果物である商品が、労働者に相対する客観物としての姿として現れることを、労働の成果からの疎外と呼ぶ

定理1.1.4

定理1.1.3より、抽象的人間労働によって包括された存在として、具体的人間労働が存在するため、主体的な労働の成果物は、社会の経済的諸関係や労働過程の凝固としての客観物としての商品として相対する。そして、定義1.1より労働者は資本主義的生産様式の中で存在し、定理1.1.3からも自明の通り、資本主義的生産様式における労働者は、資本家における剰余価値の搾取のための剰余労働の中で、客観物として相対する商品を生産する。このことから、定義1.5より、労働者の主体的な成果物が客観物として相対するという労働疎外は、資本家による労働者への剰余価値の搾取のための剰余労働によって生産される、客観物としての商品が生み出す抽象的人間労働の性質によって引き起こされると言える。そして、定義1.2および公理1より、抽象的人間労働の性質をもつ商品によって資本主義経済は構成される。

論考

価値論の分析は価値形態論の、使用価値交換価値でされてるよね。

使用価値は個人的な効用に基づく価値で、

交換価値は、使用価値のある者同士を自然に交換していったときに生まれる、交換をする際の普遍的な比率のことだったよね。

どうして剰余労働で剰余価値が搾取されるから労働疎外が起きるかを考えるならば、必要になるのは、資本主義社会においては使用価値に対する交換価値の優位性があることを考える必要があるからだって思うよ。どうして必要があるかといえば、それはマルクスの著作全体を俯瞰した上での視点になるけど、資本主義社会において経済活動を支配する経済法則では経済活動をする上で、資本家は使用価値を生み出して、それを商品として消費するためには労働力商品を、交換価値として購入する必要があるからなのかなって思う。つまり、そこでは交換価値使用価値を交換するための比率という対数同士の関係を包括する価値として存在している(なぜなら、交換価値は経済学においてはA商品x量=B商品y量という比率の関係として定式化されてるよね)ので、対数化された使用価値同士を含む集合として考えられると思うの。使用価値の場合は、それ自身が主観的な効用に基づくから、交換価値にとっての必要条件ではあっても十分条件であることはできないってことになるのかなって。なぜならば、量化されている(例えば米1キロ)効用のある使用価値を考えた場合、これと交換可能なものがなければ、それは主観的な効用にとどまるため、だから、個人的な効用に基づく使用価値を、客観的な価値をもつためには交換価値をもつ必要があるけれど、それには先程示したように等号で結べる対数としてのもう一つの使用価値が必要になって、初めて交換価値として実現されるんだよね。だから、ここでは交換価値の前提として2つの対数としての使用価値は必要な条件として存在するけど、交換価値を完全に満たすための条件としては、個別具体的な使用価値をもつ量化された物は十分ではない(なぜなら、ここでは使用価値は等号で結べる対数であればいいので、その量や質を拘束する条件が存在しないから)から、交換価値にとって使用価値は必要条件であって十分条件ではないという定義が可能になるよ。そして、このことから、先程出てきた交換価値は使用価値を包括する集合として考えられるというのも自明になるよね。だから、これによって使用価値に対する交換価値の優位性が証明がされるんだけど、これを価値論の具体的人間労働と抽象的人間労働っていう定義とかに当てはめていけば、主観的な効用である使用価値を包括し、有耶無耶にしてしまう交換価値化によって、人間の主観的な労働の交換価値化=労働商品化によって強いられる剰余労働と、その搾取によって生まれる剰余価値が生まれるという資本主義社会の労働形態は労働疎外によって起きるという事態も説明できて、価値論の分析と人間の労働疎外は不可分であって、資本主義社会の経済法則を貫く論理であることは証明できると考えられるから、上の定理の証明に繋がるよ。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?