寂しいといえなかった
「犯罪と、タトゥー以外なら、何をしてもいいよ」
いつだったか母から言われた言葉だ。自分で言うのもなんだけれど、私はとても健全に生きている、と思う。体に悪いからタバコは吸わず、ピアスも自分の体に穴を開けると思うと気が引け、お酒も付き合い程度に呑むほどだ。(ただしお酒の失敗は少なからずある。)
健全、というよりも、保守的という言葉の方が合っているのかもしれない。興味はあるが、それに勝る恐怖があった。誰しも初めてに触れるのは少しの勇気がいる。リスクを背負うくらいなら、と辞める。つまり、勇気がない。私は、臆病とも言い換えられる。
何事にも理由があるように、この臆病にも理由がある。人の思考や思想、感受性などは学生時代と呼ばれる数年間の、周囲の人間関係の影響が殆どだと思っている。それは私で言うところの母が大いに関係している。
小学1年生の頃から母との二人暮らしが始まり、なるがままに日々が過ぎていく。小学校3年生までは学童保育へ通っていたからまだよかったものの、そこから先は誰もいない家に帰ることが主だった。帰れば、テーブルにメモが置いてある。
『冷凍庫にパスタが入ってるから、それを食べてね』
あくる日は、500円玉が置かれていたり、それは1000円札だったり、日ごとに違っていたが、母と過ごす時間は少なかった。メモはやがて白紙のノートに変わり、それが母娘の交換ノートになった。毎日帰宅しては、母からのメッセージを読み、返事を書いて布団で眠る。夜に帰ってきた母がそれを読み、次の日仕事前にメッセージを書く。私は母からの言葉を読むのが好きだった。そして交換ノートの次に、携帯を持たされてからはそれはメールや電話へと変わった。同級生の中で、携帯を持ったのは一番早かった。
そんな状況もあってか、母は私の行動に制限をつけなかった。門限はなく、万が一遅くなりそうな場合はメール、もしくは電話を入れること。それだけだった。だからといってあまりにも遅い時間に帰ることはなかったし、連絡せず帰らない、なんてこともしなかった。メモに従い冷凍パスタを食べる日もあったし、食材が何か余っていれば自分で火を扱った。時々早く帰ってくる日は、母の手料理が食べれるので、好きだった。
母は私を怒ることは滅多になかった。この環境の中で特に私は悪いことをしていなければ、しようという考えもない。調子に乗ってゴミ捨てを適当にしたところを見られて怒られる、とか、そんな我ながらアホな理由で怒られることはあったけれど。
そうして過ごしてきたうちに私の中で、
”「いい子」でいれば、怒られることなく過ごすことができる。”
そんなことを思い始めていた。誰だって怒られるのは好きではないだろうし、「いい子」の枠からでなければいいだけ。もし、「いい子」でなくなったら。そういう思いが、私の根本的な臆病の元になったのだと思う。人の顔色を窺いだしたのも、きっとここからだ。つまり、母に嫌われたくなかったのだ。
それからしばらく、私は自分の意見よりも母の意見を尊重するようになる。
自分の考えを出すよりも、従った方が早いと思っていた。自分の主張をするのが苦手で、全て隣にいる母が伝えてくれる。だから、私は何も言わずとも生きていけた。人見知りを自覚したのはもっと後のことだった。
そんな過ごし方が定着してしまったある日。些細なことで母と言い合いになり、「いい子」に胡坐をかいていた私は、何故怒られなきゃいけないのか、と逆ギレをする。そんなときの母からの言葉が印象的に残っているものがある。
「言ってくれなきゃわからない。お母さんだって、貴方が生まれてからお母さんになったんだから、全部がわかるわけじゃないんだよ」
目からうろこだった。自分の中でズドン、と雷が落ちるような衝撃だった。例えるなら、役者が舞台を降りてただ一人の人間になるように、母も一人の人間だったのだ。
ストン、と腑に落ちた。ごく当たり前な事を、私は甘えていた。「いい子」でいることだけを見ていた。私は自分の気持ちを出すのが苦手だと思った。そう思っていた。母なら、言わずとも私の気持ちを分かってくれている。そう勝手に思っていただけだったのだ。
何をしてもいいという広い範囲の中で、足が延ばせなかったのは「いい子」の枠から出てしまうことを恐れていたからで。ああずいぶん保守的に生きてしまったものだと今更ながら思ってしまう。
寂しい。
本当はずっとずーっと寂しかったんだよ。
これが言えていたら何か変わっただろうか。寂しいと口にしてしまうことを「いい子」の枠からはみ出すことだと思っていた自分がいて。
全ての思考回路を汲める人はいないに等しく、それが近しい関係であっても例外なく気持ちは伝えるべきだと思う。そんな当たり前なことを学んで。
そして私は、私の驕りで生まれた臆病と向き合って、私はこの先も生きていくのだ。