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くるりをきいて
4年ぶりにくるりのライブに行ったよ。
4年前とは、全然違う気持ちになったから嬉しい。大学に通ったり、たくさんの人に出逢ったり。4年間いろんな経験があっての今回の咀嚼。
長いTwitterの下書きみたいなもんです。
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動物的、感覚的なものを大事にしてたい。
できる限り形にしてたい。
それを技法の枠に押し込めてしまっていいのだろうかという葛藤。
複雑さに惹かれる。でも、分解して分かった気になることが、怖い。
言語だから、音だから、美術だから、身体だから、字だから…メディアそのものを考える。
くるりに対して、わたしは「それは別に音楽じゃなくていい」って思ったことはない。
でも、自分がなにかを表す時、それが言葉じゃなくてもいい、絵じゃなくていい、自分の身体じゃなくていい、そう思うことがたくさんある。
人のことばを借りすぎていて、満足している。
それは楽しいけど瞬間的で、ちょっと虚しくなるときもある。うまくマネできていいのかな?みたいな。
でも与えられたものやかりもの、マネしたものををうまくパッチワークみたいにすることを通してじゃないと、自分がわからないなとも思う。
くるりの存在も、べつに音楽じゃなくてもいいって感じる人も、おると思う。
人と聴くと気づきがあって興味深い。自分が好きなものの、どこが好きなんだろう私は、と考える。
わたしが自分の好きなものを、人と共有するのが少し苦手だったのは、それを自分の所有物のようにしていることに気付きたくなかったから。
加えて、自分の感情を他者に渡すのも、他者の感想を浴びるのも、双方の純粋な気持ちがぼやけてしまうのではないかという気持ち悪さ。
でも、生きることはその繰り返しだとも最近思う。誰かと関わらないと生きていけんもんな。
好きだと思っているものを浴びて、考え出すと、どこからどこまでが自分なのか怖くなる。
影響は自覚のないところにもあるし、境界はいつも流動してる。
本当は、共有も影響もし合いたい。楽しそう。
でも、モノに溢れすぎた周囲では、自分を含めた多くの人が、人の言葉を借りすぎているような気がしてる。借り物の借り物の、そのまた借り物。
手に届く範囲が広くなりすぎてかりものの基準もまた統一されていく。
美しいと思うものも。
何故そう思うとと問われたら、なんて答える?
作品に一番近いのは、作り手である本人。
でも別に、作り出されたものは、本人のものでも、誰のものでもないと思う。制御できないところにある。
人は作り出されたものを完全に理解はできなくて、浴びることしかできへんような。その作品の境界でさえも曖昧だから。
くるりを誰かと聴くのなかなかなくて、ましてや4年ぶりのライブ。
月並みな言葉やけど、会場のなかで境界がなくなったような、そんな感覚が幸せだった。
それと同時に、隣にいる人、前に居る人とは分かり合ってない、同じものを抱いてはないことも嬉しかった。
感情は曖昧ながらにも独立していて。
自分と横に居る人との間に完全な境界があると感じたことも幸せだし、そう思える自分のことを好きだと思った。
体感として、境界はなくなってるのに、あるということが気持ち悪くなかった。
横にいる人の気持ちは私のものではないし、私の気持ちもまた横にいる人のものではない。
あたりまえだけど音楽のあるべき正解はない。
その瞬間にいた、曖昧な個の集団を穏やかに愛おしいと思えたよ。
音楽は作り手と聴き手の一対一とずっと考えていたけど、そうじゃないとおもった。
くるりの音楽は好き、でもなんというか、音楽というか、緩急の波に惹かれているんだなとも思う。
その波を、違う波を持つ人と一緒に聴けたこと、それを心地よいと思えたことが、昔の自分と変わったことだなと思う。
個々が大事にする要素、分子みたいなものをみていたい。