哲学カフェ 記録って?写真?
おはようございます。
昨日の哲学カフェが楽しすぎたので、なんとなく書きたくなりました。
記録するとは?
写真を撮るのはなぜ?
後で見ることを前提にしている。
残したいと思うのはどうして?
最近は近所をお散歩しています。
歩いている時は無心になれて心地良いです。
ふと、空、木、花や珍しいお店を見ると写真を撮りたくなります。
その時は、「今のこの気持ち、胸の高鳴り、興奮、幸せな感覚を忘れたくない!」という思いなのだと思います。
完全には思い出せなくても、写真を手掛かりに、ふっと蘇るその時の空気感があったらいいなって。
でも、だんだん惰性で撮っているような気がしてきました。
とにかく心の高ぶりのままにスマホにおさめていることが…。
帰ってきたら100枚近くの写真がカメラロールにあって、お気に入りの写真を厳選してSNSに投稿。
それが習慣化していましたが、「これ後から見返してどうするの?」と。
写真を見返して選んで、それを投稿している間に、私の目の前には新しい「今」があるはずなのです。
それなのに「今」を見ようとせずに、もう過ぎた残像を振り返っている私がいました。
写真を見返したりSNSに載せている間に、かけがえのない多くのモノを見逃していたのではないか??
新しい今との出会いを、自ら放棄している?
そう思ってから、撮る枚数がぐっと減りました。
撮っているその瞬間を楽しむようになりました。
青い空や綺麗な夕日を見て、自分が好きな角度で切り取ることにワクワクして。
だから、撮った直後に一瞬見て、満足して消す。
残すための写真というより、自分の世界の見方を確認したいのかも?
最果タヒさんが『「好き」の因数分解』というエッセイの中でインスタグラムについて取り上げていました。
「見たくもない」という感覚が嫌悪感を表すように、「見る」という行為はそれだけで、愛おしさの表現だった。
(中略)写真は、いつも一人の視点によって生まれる。「私からはこう見える」ということが、そのまま形となる。誰にも理解されなくても。誰にも同意されなくても。
写真である限り、「自分にはこう見える」ということは、もはや固定され、誰にも上書きすることはできない。その、孤独のままの愛おしさを、誰かと見せ合えるとき、さみしさを埋める、ということよりも、さみしさのままであり続ける、という安心があるように思う。最近、インスタグラムを見ていると。
最初に読んだ時に衝撃を受けたのを覚えています。
孤独を埋めたくて、繋がりたくて、承認してほしくてインスタをやっていると思っていたけれど、孤独を孤独のまま残して見せ合うというコンテンツでもあるのかと。
誰にとっても正しいこと、主観をできる限りそぎ落とした客観的事象。
知りたい。
けれど、生まれてから死ぬまで「私」「自分」というフィルターを通してしか世界を見ることができない。その限界に時々打ちのめされそうになる。
どんなに言葉を尽くしても全然足りない。
限られた枠の中で、なるべく忠実になるように模索することはできるけれど。
伝えることは難しい。
形にすることも。
オリジナルとはどうやっても違うものになってしまう。
でも「自分からはこう見える」をそのまま差し出すことができる「写真」。
誰かに見せる時に「記録」の枠を抜け出せるのかもしれないと感じた。
哲学カフェは「もう一人の自分」が歓喜の声を上げて、ものすごく楽しい。
自然を全身で享受しているときのような喜びに包まれる。
心が元気になっているのが分かる。
インスピレーションの宝石箱のよう。
月に1回の特別な楽しみなのです。
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