見出し画像

「ライカでグッドバイ」-カメラマン沢田教一が撃たれた日」青木冨貴子著ブックレビュー:日高新報2024年8月23日付掲載

割引あり

 沢田教一はピュリツアー賞を受賞した青森県出身の報道カメラマンである。受賞作の「安全への逃避」は本著の表紙写真だ。ベトナム戦争の悲惨さを伝えるものとして有名な写真である。彼は当時UPI(ユナイテッド・プレス・インターナショナル)通信の報道カメラマンであった。
 ベトナム戦争は1959年、アメリカが南ベトナムを支援するとして軍事顧問団を送ったことに始まる。1964年になるとアメリカ軍は本格的に参戦を始めそれは1973年まで続いた。アメリカ参戦の理由は当時南北に分かれていたベトナムの共産化を阻止することであった。日本の沖縄からも多くの戦闘機や爆撃機が発進している。そんな戦争の現状を伝えるべく毎日新聞東京本社の一角にあったUPI通信社からも多くの取材班が派遣された。その中の一人が沢田教一であった。
 沢田は1965年にベトナムに渡ると多くの惨劇をカメラに収めた。沢田の愛用のカメラはライカM2である。また、沢田は日本のサンデー毎日(昭和42年6月18日号)に次のように寄稿している。
 -快晴、気温43度、湿度85パーセント、着込んだ防弾チョッキはまったく風を通さない。火を吹くかと思わせる暑さだ。もう汗も出ない。(中略)
 狙撃兵の発砲と同時に、自動小銃がうなり、海兵隊はやぶの中にくぎづけとなった。(中略)
 「衛生兵、衛生兵」
 と大声で叫びつづけた。私の目の前では、T・ウエスト伍長がもう一人の負傷兵の応急手当をしている。斜め前でM16ライフルを撃っていた海兵隊員2名が、どっと音を立てて、私の方へ倒れてきた。衛生兵はまだ来ない。時計は午後5時40分。太陽はまだまだきびしく照りつけている。-

 1966年、アメリカ軍は「索敵掃滅作戦」を開始した。沢田はこの作戦にも同行する。
 ベトナム中部の海沿いの街、クイニョンにやってきた。
 海兵隊はF100戦闘機からナパーム弾を投下する。空からの攻撃に村人たちはいっせいに逃げ出す。爆撃で家も吹っ飛び爆音が耳をつんだく。村人はわれがちに川へ飛び込んだ。沢田は対岸から、死に物狂いで川を渡って逃げて来るベトナム人母子5人の姿にレンズを向け、次々とシャッターを切った。対岸にたどりついたときこの母親は沢田の足にすがりつき「助けてください・・・・」と言った。

ここから先は

126字

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?