青天を衝け第4回/浜田弥兵衛って誰?
こんばんは、徳川家康じゃありませんw
幕末もなんとなく知ってたつもりだったけど
「青天を衝け」を見てると
この人のこと名前は知ってるけどよく知らないな~とか
この人は一体誰なんだ?と全然知らない人もいたりして
自分がこの時代のことを知ったかぶり状態になっていることを
思い知らされたりもする。
歴史的に有名な人物や出来事について
多少なりとも詳しく知った程度で
その時代のことをわかった気になってる自分を
「青天を衝け」が戒めている
そんな感じ。
というわけで
第4回の青天を衝けメモはご覧のとおり。
「おもしろい」と「おかしい」を合体させた造語、「おかしれぇ」
浜田弥兵衛の本
黒田長溥
タイオワン
シャムの山田長政再び
魂をのっとる伴天連
松平春嶽が要潤、橋本左内が小池徹平
諍臣、君主の間違いを正すために処罰を恐れず自分の意見を言える家臣
給仕の作法を教える徳川慶喜
農人形
貴人の相
今日はめっちゃ笑顔が多い徳川慶喜
堤真一さんの演じる平岡円四郎
なっからいい出来
栄一が考えた番付制度
一番上は大関?なんで横綱いないの?
まっさか面白れえ
何百両と命じられる御用金
永井尚志
開国を訴える井伊直弼
日米和親条約締結
へぇへぇと聞きへぇへぇと頭を下げるのみ
利根義晴
持ち帰って父と検討をしたい栄一
泣く子と地頭
小石川後楽園
ついでに青天を衝け公式Twitterが呟いている
【#青天ナビ】の情報も補足的にいくつか載せておく。
今回載せてはいないが
栄一が藍玉の番付表を作った話や
父の名代で岡部の陣屋へいき御用金を命じられた話も
史実であることが青天ナビで補足されている。
今回のタイトルに挙げている浜田弥兵衛についても
青天ナビでの補足はあったんだけど
せっかくなので今回は
その浜田弥兵衛をメインにしようと思う。
浜田弥兵衛って
そもそもどれぐらいの人が知っているのか?
私は初耳、まったく知らなかった。
どれぐらいの時代に生きていた人なのかも
さっぱりわからず。
でも尾高惇忠や渋沢栄一がアツく語るぐらいだから
それなりの偉業を成した人に違いないわけで。
シャムの王様になった山田長政同様に
高き誇りを持つ日本男児代表のように称えられる
浜田弥兵衛とは何者?
ちなみにAmazonで本がないか『浜田弥兵衛』で検索してみたが
古書はヒットはしたものの、現在取り扱いできない状態。
それ以外にヒットした関連書籍はゼロだった。
渋沢栄一が時を忘れるほど熱心に読んでいた
あの浜田弥兵衛本は現代には無いらしい。
どういうことなんだろうか。
ウィキペディアを覗いてみると
浜田弥兵衛についてはこんな風に書かれていた。
浜田 弥兵衛(はまだ やひょうえ、旧字体:濱田彌兵衞、旧仮名遣い:はまだ やひゃうゑ、生没年不詳)は、江戸時代初期の朱印船の船長。長崎の人。1627年に起こったタイオワン事件(ノイツ事件)の実行者。1915年(大正4年)、贈従五位[1]。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江戸時代初期、将軍でいえば3代将軍・徳川家光の時代で
どうやらタイオワン事件に深く関わっているらしい。
タイオワンとは
現在の台湾の台南市安平区のオランダ名で
台湾の国名の由来、という説もあるようだ。
江戸時代初期の頃はちょうどオランダが
台湾島を占領し始めたころ。
そんなタイオワンで事件が起こったのは
寛永5年、西暦でいうと1628年。
台湾を領有し始めたオランダが
台湾にやってきた商人たちに
貿易品に10%の関税をかけることを決める。
しかしこの関税がきっかけで
日本の商人たちと台湾を統治するオランダ人の間で
いざこざが起き始める。
中国の商人たちは関税をすんなり受け入れたらしいが
日本の商人たちは不当な関税をかけられたことに
憤りをおぼえて、それを断固拒否したのだ。
当時台湾領の行政長官だったのはピーテル・ノイツ。
日本人の商人たちの不満をおさえるべく
オランダ側はピーテル・ノイツを事情説明のため
江戸へ向かせる。
しかしそれを阻んだのが
長崎長官の末次平蔵と
その部下である浜田弥兵衛だった。
台湾から原住民を連れてきていた浜田弥兵衛が
ピーテル・ノイツよりも先に
台湾の原住民たちを将軍に謁見させて
オランダ人の不当な振る舞いを訴えさせたのだ。
それを知った江戸幕府はピーテル・ノイツを
オランダからの正式な使節とは認めず
追い返してしまう。
この浜田弥兵衛の行動に怒りを覚えたピーテル・ノイツは
台湾に再びやってきた浜田弥兵衛らを拘束した上、
船に積まれていた荷や武器をすべて取り上げてしまう。
浜田弥兵衛らは台湾からどこへも出ることは許されなかった。
そんな状態が1カ月ほど続き
このままではどうにも埒が明かないということで
浜田弥兵衛は命懸けで
ピーテル・ノイツと交渉することを決意する。
浜田弥兵衛は部下15名ほどを引き連れて
ピーテル・ノイツに対して
帰国する事と所持品の返還を交渉した。
しかしピーテル・ノイツは首を縦に振ろうとしない。
交渉は決裂してしまう。
しかし命懸けでこの交渉に臨んでいた浜田弥兵衛は
隙を見てピーテル・ノイツに飛び掛かる。
そのままピーテル・ノイツを組み伏せて剣を突き立てながら
あっという間にピーテル・ノイツを縄で縛りつけてしまった。
※ピーテル・ノイツの通訳も同時に捕らえたらしい。
浜田弥兵衛はピーテル・ノイツを人質にとって
オランダ側と交渉することにしたのだ。
浜田弥兵衛側とオランダ側の交渉は
6日間にわたり続けられた。
その結果、以下のことが決まる。
・双方が5人ずつ人質を出すこと
・双方がそれら人質を乗せて日本へ向けて船を出すこと
・日本に到着後、双方の人質を解放すること
もちろん没収されていた品々の返還も認められた。
この取り決めに従って
オランダの船と日本の船は日本の長崎に到着。
取り決め通りなら
双方の人質を釈放することで一件落着なはずだった。
ところが、オランダ側の所業を浜田弥兵衛から聞いた
江戸幕府が憤慨してオランダを許さなかった。
オランダ側の所業というのは
前述した将軍に謁見した台湾の原住民たちに対する扱いだ。
原住民たちは浜田弥兵衛と共に江戸から台湾へ戻った際に
ピーテル・ノイツらに捕らえられてしまったのだが
将軍から与えられた土産品を
全てオランダ人に奪われてしまった。
その上、原住民たちは謀反を起こした重罪人として
牢獄に入れられてしまっていた。
このオランダのやり方に憤慨した江戸幕府は
オランダ側の人質5人を解放しようとしなかったばかりか
オランダ船の大砲・武器等を全て取り上げてしまう。
更には、平戸のオランダ商館の帳簿を閉じて
オランダ人の商売を禁止してしまい
その後入港してきたオランダの船も取り押さえてしまった。
オランダも流石にこれには驚いて
江戸幕府と再三にわたり交渉をするが
江戸幕府は決して許そうとはしなかった。
しかし寛永9年(1632年)に
いわゆるタイオワン事件を招いた人物の一人、
ピーテル・ノイツをオランダ側が日本へ派遣したことで
事態は収拾へと向かう。
オランダ側はピーテル・ノイツを差し出すから
捕まってるオランダ人を解放してくれと言ってきたのだ。
江戸幕府は、そのオランダ側の言い分通りに
派遣されたピーテル・ノイツを牢屋に入れて
その代わりにそれまで人質としていたオランダ人を解放した。
さらに取り押さえていたオランダ船の出港も許し
オランダ側の平戸での商売禁止も解いたのだ。
その後ピーテル・ノイツは4年ほど日本で囚われの身となる。
解放されたのは寛永13年(1636年)のこと。
日光東照宮の落成式でオランダのバタビア総督から
珍しい品々を記念品として献上してもらったことを契機に
ピーテル・ノイツの釈放を決めたそうだ。
といった話が浜田弥兵衛が深く関わった
タイオワン事件の一連の話。
この話については以下のブログを参考にしているので
更に詳細を知りたい方は覗いてみてほしい。
ピーテル・ノイツを投獄にまで追いやったのは
間違いなく浜田弥兵衛だろう。
彼がピーテル・ノイツに抗い続けたことによって
最終的には国同士の喧嘩も日本が勝利を収める結果となった。
オランダといえば大航海時代における西洋列強の一つ。
そんなオランダに浜田弥兵衛も江戸幕府も
一歩も退かないどころか強気な姿勢で立ち向かっていたのが面白い。
西洋諸国からの侵略も危ぶまれていた幕末の時代に
渋沢栄一が「高き誇りを持つ日本人」として
褒め称えるのもわかる気がする。
ちなみに台湾だとタイオワン事件のことを
浜田弥兵衛事件と呼んだりするらしい。
もしかしたら、日本よりも台湾の方が
浜田弥兵衛の知名度が高かったりするんだろうか。
ついでに言うとオランダは
日本が鎖国政策をとっても日本と貿易を続けられていたが
それはタイオワン事件があったからだそうだ。
その辺も踏まえると
オランダ側からしても浜田弥兵衛は重要人物な気がする。
浜田弥兵衛は幕末の頃には有名だったんだろうし
台湾やオランダでもそれなりに名が知られてそう。
だけど今の時代には全然その名が知られていない気がする。
彼について書かれた書籍自体が無さそうのだ。
なんでだろう?と思ったら……
どうやら浜田弥兵衛について書かれたものは
GHQ焚書図書に指定されていたらしい。
なるほどなぁ、納得。
「青天を衝け」第4回の感想どこいった(笑)
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