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屁理屈で考えるトロッコ問題

トロッコ問題

 皆さんはトロッコ問題を知ってますか?
 多分皆さん一度は聞いたことがあり、考えたことのある問題だと思います。これを私の屁理屈な持論を少し提言させていただきます。

♦トロッコ問題とは?

 まずはトロッコ問題がどんな問題かと言えば、
『線路を走るトロッコ(路面電車)が暴走してしまった。このままでは五人の作業員が轢かれて亡くなってしまう。
この時A(あなた)は線路の分岐器の周辺にいた。あなたが分岐器を作動すれば五人は助かるが別路線の一人の作業員が亡くなってしまう。この時A(あなた)は分岐器を作動させるか』

という問題です。本来の問題であれば分岐器を作動させるのはAですが、深く道徳観や倫理観を考えさせるために、あなたになっている問題も多いです。
 この問題で、その人の道徳観と倫理観が分かります。哲学的に言えば、功利主義か義務論かを考える問題です。

♦基本的な解答

  1. 一人を犠牲にして、五人の作業員を助ける。

  2. 傍観者になって、作動させない。悪く言えば五人を見捨てる。

 誰もが考える解答はこの二つでしょう。
この解答は直感で分かりますが哲学的に考えてみると、この問題が他にも活きてくるその人の考え方が浮き彫りになります。

 1の解答のように一人を犠牲にして、多くの人を救う考えを功利主義と言って、簡単に言えば利益の追求を第一優先に考える事です。利益や幸福が増える選択をして最大幸福を目指すことが正しさであるという思想です。ベンサムやミルが有名ですね。
 これだけ聞くと自分勝手と思われると思いますが、この功利主義の考え(特にベンサム主義)は個人が最大の幸福を得ると結果的に国家全体が幸福になるという考えの基、利益を求めています。最大多数の最大幸福という言葉が端的に表した良い言葉でしょう。

 2の解答は2つの理由があります。一つ目が皆さんが考えるような、関わりたくないといった自分を守るような考えでこの考え方は多数の利益より自分を保守して、自分の利益を考えるというもので、ある意味では功利主義であるとも言えます。
 ですが、2つ目の理由として義務論があります。義務論とは正しさを結果に求めるのではなく、その過程である行動に正しさを求めます。そして義務論の正しい行動というのは、利益のための行動ではなく義務に従うという行動です。なのでこの問題では、利益を考えて分岐器を作動させるという行為それ自体が正しくないと考えます。カントなどが提言していましたね。


♦他の解答

 このトロッコ問題に対して様々な人が解答を出しています。それは先程の解答とは違う第3の解答も存在しているのです。しかしこの第3の解答というのは哲学的な意図から離れてしまっていたり、屁理屈染みている場合もあるので娯楽程度に楽しむか頑張って哲学に照らし合わすかしましょう。

代表的な答えがFNN(フジニュースネットワーク)とひろゆき氏の答えです。
 FNNの解答はトロッコが分岐器を通過して直後に作動させるというもので、この解答としては分岐器通過直後に作動させれば前後の車輪が別の道に行き停車するという解答です。一番合理的ではありますが倫理観、道徳観を諮るこの問題にしては少しばかり逸脱している、現実的な答えですね。
 次にひろゆき氏の解答は、作動させると法的な処置が行われる可能性があるため作動させないというもので、この解答は2の解答に似ていますが実態としては少々違います。2を選ぶ大多数の人は殺人という行為をしたくないや罪悪感といった感情ベースでの解答ですがひろゆき氏の解答は感情ではなく論理ベースで法律を持ち出して2の解答を選んでいるのです。(ただひろゆき氏の解答はトロッコ問題で法的な責任は問われないと前提があるため間違いとも言える。)
 このように多種多様な第3の解答を様々な人が持っています。

♦持論

 それでは、私の屁理屈とひねくれの解答を見ていきましょう。
 私の解答は、

  1. 自分がまず轢かれる。

  2. 見て見ぬふり、最初から知らないふり

 この2つが私の解答です。それではこの解答に屁理屈とひねくれを混ぜていきます。
 まずトロッコ問題そのものなんですが、トロッコ問題は倫理観と道徳観を諮る問題です。そもそも自分でこの六人の生殺与奪の権利を持ってどちらかを犠牲にするという考え自体、倫理観に欠けていません?そう私は思ってしまいました。考えてみてください。この問題で悩んでいる時点で間接的に殺人に関与しているものですし、あの2つの解答で迷っているという事は自分が犠牲になるという考えを排除していて問題としての不備であるようにも感じます。
 この屁理屈から、私の解答はこの2つです。1つ目の解答は自己犠牲に一縷の望みを考えてのものです。自分が轢かれることで結果的に止まれば万々歳、止まらなくても自分的には倫理観に欠けていない行為のため自分的にまだ許せる範疇だと勝手に思ってます。(この答えもひろゆき氏の解答同様定義的に間違いではある。)
 2つ目の解答は保守、義務論的な解答に近いですが根本が違います。迷う事すらしません。そのまま素通りです。何も考えず、自分とは全く関係のない事象だと割り切ってスルーします。もっと言えば、この問題にすら到達していないというわけです。これは解答としてはグレーですが、自分の倫理観や道徳観が保持されます。生殺与奪の権を持たず成り行きに任せるのはある意味で義務論的であるかもしれませんけど。

♦終わりとおまけ


 そもそものトロッコ問題の意義が功利主義と義務論の対立とはいえ、昨今では倫理観、道徳観を諮る問題。トロッコ問題のアップデートも必要だと思います。
 皆さんも今一度トロッコ問題について考えてみたり、第3の解答を見つけてみてください。屁理屈だとかひねくれだとか言われても、考える事それこそがこの問題や哲学の意義ですから、どんどんと思考を重ねてみてください。

 おまけとして私の友人の解答を載せておきます。
・作動させて一人を犠牲に、その後5人から感謝という名の謝礼をたんまり
 恐ろしい事考える人もいるもんですね。



 


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