天才が持っている『才能』とは
〜モーツァルト、ロダンとカミーユ〜
「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」という映画がある。
ロダンの、
「40歳でやっと世の中に認められた」みたいなセリフで始まる。
感想を書くのだから、
セリフぐらい、アマゾンのプライムビデオを見直して、
確認すればいいのに、
どうしても、この作品をもう一度見たいとは思えなかった。
音楽を使って、
過剰に演出することなく、
バイオリンの単旋律のメロディが、
時折、本当にたまーに流れるだけの創りは、
悪くはない。
けれど、
鑑賞途中から、
「監督は、映画の制作中に、
ロダンやカミーユに人としての魅力を感じなくなり、
彼らの彫刻作品にさえ、
リスペクト出来なくなってしまった」
のではないかと思えてきた。
劇中、
彫刻の森美術館に鎮座しているロダンの作品が出てくる。
映像中の巨大な作品には、
「彫刻の父」と称されるような、
心揺さぶるものは何もなく、
ただ、寒々しく、
そこには「空っぽ」があるだけだった。
カミーユの人生に至っては、
ロダンと別れた後のことなど、
知ったこっちゃない・・・みたいに切り捨てている。
この映画の登場人物は、
みな、「怒り」や「失意」の中にいた。
さて、モーツアルト。
11月30日に生配信によるミュージカル「MOZART!」を観た。
このミュージカルは、
モーツァルトの「才能」が、
子どものアマデと、アマデがずっと持っている「箱」によって、
可視化されている。
アマデは何も語らないが、
無表情ではない。
作曲に集中しないモーツァルトを、
時に、怒り、
時に責める。
「才能には意思がある」
そんな擬人化が、
恐ろしいほど説得力があり、
こんなもの(才能)を持っていたら、
カミーユ然り、エキセントリックな性質にもなるだろう。
劇中のモーツァルトは、
「才能」という、
大切な人たちをことごとく不幸にし、
制御不可能な化け物を、
自らの命を絶つことで、
共に闇に葬り去った。
(カミーユが、自分の作品を自らの手で、
破壊したことも、
ただのヒステリーではないはずだ)
時を越えて、
天才たちが世に産み出した「芸術」は、
眩く輝いて、
人々の心を揺さぶり続けている。
カミーユの弟が、
「姉の才能は、姉を幸せにしなかった」
みたいなことを語っていたが、
「才能」というギフトは、
それを有する本人だけではなく、
身近な人や大切な人たちのことも、
概ね幸せにはしない。
そんなようなことを、
これらの作品からは感じた。
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「モーツァルト!」の劇中歌。
何故愛せないの?
このままの僕を
何故愛せないの?
僕を
カミーユも、モーツアルトも、
ロダンも????
この問の答えが欲しかっただろうな。