「あわゆき通信」第2号より作品鑑賞
昨日7日からダウンロード開始となった、さっぽろ俳句倶楽部ネプリ「あわゆき通信」第2号。
続々とダウンロードいただき、ありがとうございます!
18名の作家による、「光と陰」を一対にした俳句世界。その中から、何句かピックアップして鑑賞したいと思います。
偽物の夜を蜥蜴が舐めピチャリ 山田すずめ
「陰」の句。
「偽物の夜」という謎かけのフレーズから始まる句。本当は明るいのに「闇」を装っている空間か。
蜥蜴の生態を考えると謎が解けそう。基本的には夜行性というわけではないようだが、砂に潜ったり、湿度の高い暗いところに棲息している。もしかしたら、爬虫類館のような、暗めのライトアップのゲージの中にいる蜥蜴の様子なのかもしれない。
もう一つのポイントは「夜を」「舐め」という構文だろう。水ではなく、「(偽物の)夜」を舐める音を「ピチャリ」と表現しているのだ。あえて「闇」に身を浸しに行くような暗さが不気味でもあり、「ピチャリ」のオノマトペの余韻に吸い込まれてしまうような魅力もありという句だ。
獏が脳咀嚼してゆく五月闇 昼顔
掲句も「陰」の句。
人の夢を食べて生きるという想像上の動物である「獏」。その獏が、夢を見させる元となる「脳」を咀嚼してゆくというのだ。想像すると、生々しく空恐ろしい景。
煩悩の元になる「脳」を咀嚼されたら、この身は軽くなるのだろうか。しかし、「考える」「感じる」ことを奪われた身体は、果たして幸せなのだろうか?「五月闇」の季語に迷いの深さが見える。
太陽を弾ませ赤いビキニゆく 祐
一転、「陽」の句。
理屈抜きに、わかりやすく、生命力あふれる句だと思う。
「赤いビキニ」をチョイスする女性がどれだけいるかは不明だが、少数派だからこそ、目に留まるのだろう。(リアリティが・・・とか言う人への牽制vv)
太陽の光をも弾ませるほどの健康的な肉体。男性詠者ではあるけれど、女性を消費するような視線ではなく、純粋に「眩しさ」を感じて書き留めていて、夏を謳歌する気分を共有できる。
庭までが父の世界や五月晴 中野千秋
こちらも「陽」の句。
昼顔さんの句は「五月闇」で「陰の句」だったが、こちらは父の句で「五月晴」を詠む。ご自分好みに丹精した庭が目に浮かぶ。
しかし、である。明るく書いてはいるが「庭までが」の措辞に、ちょっとした謎というか「闇」も含まれているようにも感じる。庭の外にも広がる世界には行かない(行けない)父という像も浮かぶ。
境界線の手前にある「庭」は、さながら父の「桃源郷」なのだろう。
水遊び影の無き子も混ざりおる 遊子
こちらは「陰」の句。
水遊びの子供の姿ではなく、地面に伸びる「影」を見ているからこその気づき。「影の無き子」は、本当に影がないのか存在感がないことの比喩なのか。あるいは、遠い日に失った子供の面影を追っているのかもしれない。
「水遊び」の明るさに反して寂しい句で、そこに季語の解釈の広がりがあると感じる。
砲弾の突くほど光る麦畑 月波
「陽」の句である。
「砲弾」「麦畑」とくれば、大方はウクライナを思い浮かべるだろう。「砲弾の突くほど」がこの句の肝で、戦禍を潜り抜けてなお、その大地・国土は豊かに輝いていくのだというエールと読んだ。
戦争を感じさせながらも、「生き抜いていく」という人間の営みへの肯定に満ちた、したたかな「陽」を感じさせる句だ。
光のくにへ茅の輪シュワッチと潜る 石井美髯
こちらも「陽」の句。
遊び心溢れる、こんな句も混じっているのが「あわゆき通信」の多彩さ、楽しさ。
「シュワッチ」がわかる年代は、いくつくらいまでだろう?これは子どもの姿ではなく、コドモゴコロを忘れない、立派な大人の句なのである。
1句ずつ取り出して鑑賞しまいたが、ぜひ各作家1対の作品にて、お楽しみいただければ嬉しいです。
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