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 天秤にかけた代償と対価

 生きるためには呼吸をする。しかし、確実に寿命は減っていく。生きるために食事をし、排泄して、寝て、目覚め、活動へ……。

 私たちは感情というものを持ち合わせているから、このような単純な作業だけを繰り返し、一生を終えることをもったいないと思ってしまうことがある。

 怠惰な、そして無意味な人生となってしまうことを恐れ、結果、私たちは勉学や職、人間関係、趣味などに勤しみ、生きる楽しみを見つけるのだ。

 しかし、全てにおいて、対になるものが存在してくると私は考えている。

 私たちは自らの無を拒絶し、娯楽を生み出した。そして、同時に神はそれと対になるものを下すのだと考えた。

 私が書き物をするのは気持ちを楽にさせるため。私が食べたものは体の中のエネルギーとなり、残りは排泄物として流れていく。

 私が言葉を発せば、話を聞く人の耳に残り知識となるし、その間、時間だって削れていく。

 形あるものは使い続けていれば汚れたりしていくし、いつかは使えなくなってしまう。

 永久機関があったとしても、私たちの寿命が尽きれば壊れたと同じだ。
 悲しいことにこれらは現状、絶対なのである。

 人間関係においても、自身のことでもこれらは絶対に付きまとってくる。これらを拒絶した人たちは生命維持を放棄し感情をなくす。

 待ち受けるのは無だ。無という死。

 しかし、その人たちは本当に無となるのだろうか。

 無という言葉はあるし、無ということを伝えるためにはその言葉を発さなければいけない。実際に死んでみてどうでしたか、などという質問もできないし、死んでみて感想などを言うことなどもできやしない。

 死体が出ると、後の作業を誰かがし、最終的には遺族たちに「死んだ人」として残るわけだ。死人の感情は無という感情に置き換えられただけだ。
 死後は、暗がりを彷徨い、空腹を感じず、眠ることもせず、空中で点となった魂が浮かんでいるだけだろうか。

 死にたいと願う人の本音を聞いたことがなかった頃、私は死にたいとつぶやく人でも本当に死にたいと思っている人はいないと思っていた。

 何故なら死の前兆は無になることだと思っていて、死にたいという願望を持っている以上、感情はまだ有り余っているはずだ、と考えていたからである。

 だが生まれながら愛情をもらうことが出来なかった人たちが、存在を終わらせたいと自死願望を持った時、私の考えは間違っているのかもしれない。

 「死」が「無」に代わり、「感情」が成立するならば「死」は「生」として成り立ってしまう気がする。

 「生」の先には「死」があり、「行い」をすれば代償か、対価となる。

 対になるものを代償と捉えるかは己の精神状態にも深く関わってくるのだろう。 

 例えばの話、輪廻転生があるとして、花や草木に生まれていれば、こういった概念に囚われることはなく、悠々と過ごすことができるはずなのに……。

 私はこのような考え方が出来なかった……。しかしだ。

 私は最近、このような事をある人から教えてもらったのだ。

「地球の質量はいつの時代になっても変わらないんだよ」、と。

 輪廻転生の研究をしている哲学者たちが考えた理論らしく、地球の重さはいつまでも変わらないのだそうだ。

 人が死ぬと、火葬されて骨になって、土に還っていくのだが、その物体の重さはどこへ消えるのだろうか? 考えてみると、ちょっと、ん? となった。でも改めて考えてみると、私の頭の中では輪廻転生は理論的に証明されてしまった。

 だけど、一つだけじゃつまらない。

 私は死後に見る景色についてはいくつかパターンがあると思っている。

 それも天国や地獄などの枠だけでは収まらなく、もっと色んな世界を見ることになるのかもしれない。

 その中でも例を一つ上げるとすれば、人間は死を通して再び人間に生まれ変わり、同じ人間としてイフの時間を繰り返すように生きていく、とかだろうか。これを考えると宇宙の或る意味が分かるような気がして、人間が一つのイフ(時間軸)の夢を見る意味でもあると思うのだ。

 だが、私は別れが辛いから、どうにかしてでも未だに永遠と終わりがない世界を願ってしまう。

 このように私は私の腑に落ちるところを模索し続けた結果、不老不死になる可能性をも願うようになった。もはや、死の領域を超えた思想だが、不死を手に入れることが出来さえすれば、何にでもなれる気がすると思ってしまったのだ。つながり続ける歴史というものの中に存在するのは人間であり、その人間の寿命は時を追う事に伸びているというのを考えると、不死はまだ遠いかもしれないが、近い未来、百歳だって簡単に超えられるかもしれない。

 死が訪れたとしても、感情は死を通して本当の無を体験し、綺麗に浄化され、再び心機一転豊かな思考を巡らせることとなるなど考えれば、少しは生きやすくはないだろうか。

 虫や動物のような人間以外の生物も等しく、当たり前に表現できる感情を持ち合わせていると思う。

 思想ヒエラルキーの中では人間が断トツに秀でていて、その次に虫や動物たちが来るはずだと考えている。虫や動物たちが怠惰でむなしい単純作業ともいえる一生を涙一つ流さず、文句も言わずに過ごし続ける事は不可能だと思っているが、実際、人間よりかは遥かに制限された思考で生きているのではないかと考えると、それだけで称えるべき対象にもなり得る。

 こう考えてみると人間はずいぶん贅沢な生物だ。私は人間であるから、人間のことしかわからないし、ましてや他人の心をのぞき込むことなどできないわけだし、怒りもするし、笑いもするし、悩みもする。

 一生付きまとう代償を対価と捉え、対価を代償と捉える。

 プラスが存在する理由はマイナスが存在するからだ。

 しかし、プラスとマイナスを掛け合わせるとマイナスとなってしまう。

 楽しくなったり、喜んだり、嬉しくなったりすればするほど、一つのマイナス要素が突然現れると悲しくなったり、虚しくなったりしてしまう。

 例えばだ。愛情を受けた人の心は幸せで満たされ続けるが、突然、別れる事となったり、失ったりすると、感情がマイナスに行く気持ちはきっと共感できるはずだ。

 沢山の人に慕われてきた人でも、些細な事で信用を失ってしまうリスクはあり、それによってマイナスな感情になってしまう人もいる。

 感情は負けやすいのだ。

 それでは、マイナスとマイナスを掛け合わせてみたらどうか。

 私は、これを「死」であると考えた。

 初めから持ち合わせていた弱さに他方からの別の持ち合わせていなかったマイナスの感情が個人の概念に混入してくると、回路が誤作動を引き起こし、死を迎えてしまうのだと考えている。

 死は特別なものではない。


「一生に一度」


 この概念が、特別なものと勘違いされる一つだ。

 しかし、「死」が「無」に置き換わり「感情」が成立するならば死は無限であり、考え方によっては生きる事も無限ということになり得てしまう。

 友人であったAのことを私が何らかの理由で拒絶すると、私はAと話をしなくなり、関係は途絶える。残るのは過去からその日に至るまでの思い出だ。しかし、思い出は手に持てるような個体でもないし、目に見える液体でもない。自分自身の中で強くなかったと解決させることが出来れば、なくすことだって可能なものだ。

 人間は考え方や行動をほんの少し減らしたり、ずらしたりするだけで、何でも変えてしまう力を持っている。 

 これはある種の能力だと思っていいと思う。

 私はBと友人になりたいと思い、話しかけるとする。Bはそれに対して、拒否するか、受け入れるか。

 拒否された場合、私はこれをAに対する対価だと考えてしまう。

 友人になったBが不運にも事故に遭えば、私の悲しみがBと結びつく。Bと共に過ごせた時間が短かったとしても、Bの証は悲しみとして私の心を過ぎていく。Bの遺族たちや恩を受けてきた人たちは、私と共に大きな悲しみを背負い、これがBの対価となると考える。

 この時、偶然にもAも事故に遭い死んでしまったとする。

 不思議な事に、友人であるBが死んだ時よりも友人ではなくなったAの死に対しての悲しみが大きかった場合、それはAと過ごした時の思い出がプラスとなり、悲しみを思い出させる対価となったという事だ。

 逆に、Aに対する慈悲が何もなかった時、Aは私に対して、それだけのマイナスな行いをして印象を悪くさせてきていたと確定してしまってもいいだろう。

 Aがプラスな行いをしていれば私は最終的に涙を流す。

 私が悲しまなかったのはAの代償だ。

 それでは、対価ばかりを求めて生きればよいのか。

 それは、できないだろう。

 対価ばかりを求めた生き方にも代償は付き物である。

 それは精神的疲労だ。善き人間を演じていると疲れが見えてくる。これは仕方のない代償だ。

 悪行をしてきた人には当然の如く代償は下される。

 人間は面白いことに善き人間と悪しき人間のこの二種類では振り分ける事はできない。

 それは、人間というものは一つの側面だけで定義できるようなものではなく、多くの異なる要素を持ち合わせているからだ。一人の人間でも、状況や環境、時の流れによって行動や考え方が変わることがあり、善悪という単純な二元論で切り分けることはできないと考えた。

 逆に、この二元論で切り分けてしまうと、人間の本質を見誤ってしまうことにもなるのだ。

 要は、人間は多面的であり、固定的な定義では捉えきれない存在だという事だ。

 自己中心に生きてきた人はきっとどこかで孤独に気付く。

 孤独だからと気が付いて諦める人と、是正しようと奮起する人もいる。
 人生は代償と対価の連続であり、それぞれ背負うかもしれない代償がある。


 それぞれの代償を私なりに考えてみる。

 ‐身体代償-


 aは長年のリーマン生活で培った姿勢の悪さを気にしていた。aの背中はまるで弓のように沿り、デスクに向かうたびに痛みが走る。aは健康を犠牲にして働き続けていたのだ。それは家族を支えるためであり、通勤電車の中、aはこう思った。「家族のための代償だから」と。しかし、時すでに遅し、代償は思った以上に大きく、年を重ねるごとに背中の痛みは酷くなり、ついには寝たきり状態となってしまったという。だが、最後にはきっと、一生懸命家族のために生き続けたことを称えられるのだろう。


 -精神代償-


 bは、明るくて笑顔を絶やさない人間であった。常時、笑っていたbだが、自分の感情を抑え込み続けてしまい、他人のために生きてきた結果、家に帰ると孤独感と不安感に襲われるようになり、「私は誰のために生きているのだろう……」と、そんな問いがbの心を蝕んでいった。笑顔の裏に隠された涙、それがbの支払った代償だったのだ。だが、その涙に誰かが気が付いてくれる時があるはずだ。その時、bは気持ちを打ち明けることができれば、対価となる愛を貰えるのだろう。


 -社会代償-


 cは高校を中退して家族のために働き始めた。だが、教育がなっていないことが生活の障害になるとは思っていなかった。しかし、ある年齢を過ぎた頃から、周囲の友人たちが次々と社会的地位を築いていく中で、自分だけが取り残されているように感じた。「勉強とは、いかに大切か。地位がないというのはこんなにも重いのか」などと、自問自答しながら、家族を養うために毎日働き続けた。
 cの代償は自らの可能性を狭める事だった。だが、今の時代、可能性はいくらでもある。cがそれに気が付くことが出来さえすればそれは解決することだろう。


 -経済代償-


 dは、小さな町工場で働く職人だった。真面目であったため、経営が厳しい時でも社員を解雇する事なく、何とか仕事を続けさせていた。しかし、そのためには自分の貯金をすり減らし、家計は火の車であった。「皆を守るために仕方がない」とdは思っていたが、それでも生活の苦しさはdを追い詰めていった。家族とは口論が増えて疲れ切ってしまった。
 dが支払った代償は自身の幸せな日常を奪い去った。そんな失いかけた日常もきっと、dの真面目さと誠実さが対価となる日が来るはずだ。


 -時間代償-


 eは若い頃から作家になる夢を抱いていた。しかし、日々の仕事や家族の世話に追われて、いつの間にか時間だけが過ぎていった。「時間がない」と自分に言い聞かせていながら、夢を後回しにしていたが、気が付けば筆を持つ手の握力さえなくなってしまった。「あの時、もっとこうしていればよかった……」と、後悔がeの胸を締め付ける。
 eの代償はかなえられなかった夢であったという事だ。
だが、その作家という夢は生涯を終えるまで、諦めなければ叶うことだってできるはずだ。色々な手法がある。それを知る事さえできればそれは解決し、より良い方向へ行くだろう。


 -道徳代償-


 fは、長年の友人を裏切る決断をした。友人の裏切られた時の顔が脳裏を離れなく、友人を失った代償は、fの心に深い傷を残し、夜になると眠れない日々を過ごす事となるのだ。
しかし、fが友人を切り捨てる決断をした結果、会社は重要な計画を成功させ、大きな利益を得ることができた。友人との契約を解消し、より良い条件のパートナーを選んだことで、コストが下がり、作業効率も向上。
その結果、会社への信頼度や市場での地位もさらに強くなった。経営陣は「厳しい決断だったが、会社にとっては正しい選択だった」としてfを称賛。fの決断がなければ、会社がこの成長の道を歩むことは難しかっただろう。これにより、会社は安定した利益を得続け、長期的な成長の基盤を手に入れることができるようになった。これはfのおかげである。


 -肉体と感情の代償-


 gは、冒険心に満ちた若者で、世界中を旅して、様々なリスクを冒してでも新しい体験をしたいと挑んでいた。しかし、ある日険しい山の山頂で重傷を負ってしまったのだ。その後は足を動かすのも困難になり、リハビリに時間を費やす日々へと変わっていった。「あの瞬間を選んだことが代償だ」と、gはベットの上でぼんやりと考えた。
その時、考える事となるのはきっと過去の旅の思い出だ。その旅の中、どれだけ自分が頑張って来たのか、気づく事さえできればそれはgに対して心強い気持ちとなって今後も勇気づけられることだろう。


 -倫理ジレンマによる代償-


 hはある秘密を知ってしまった。それはある不正行為に関するもので、明るみに出せば多くの人が救われるかもしれないが、同時に仕事を失うリスクもあった。「正義を貫くべきか、それとも自分を守るべきか」などと、ジレンマに心を苛まれ、hは決断を先延ばしにした。やがて、不正が発覚し、hも共犯者だと疑われてしまう。その時、hは理解した。どちらを選んでも倫理的な代償は避けられなかったのだ。


 あくまでこれは私の考えるフィクションである。


 八十の老婆が「今、とっても幸せです」と言って、親族に看取られながら目を閉じて臨終した時、これは対価だ。

 八十の老婆は長い年月を掛けて、小さな代償をいくつも拾ってきた。

そして、そのたびに受け入れては立ち直り、知識を吸収してきた。

 おかげで老婆は死の直前に微笑むことができたのだ。

 こうして考えてみれば、人間は気持ちよく終わりを迎えるためには、小さな代償が人生においていくつも必要となってくる。

 明日、友人と喧嘩したとしても、これも今までの行いへの代償の一つだ。

 何か失敗したとしても、辿ってみれば些細な代償だったりもする。

 大事なのは無になる直前、統括してどのような人生だったかを思い返すことである。その時、満足いく人生だったかだ。悪しき行いをして、罪を償うために死刑になったとして、首を吊る直前に感じる恐怖心は代償であり、多くの親族に看取られ、微笑みながら臨終刷る間際の幸福感は対価と考える。

 人間はこうした概念を切り離すことのできない柔軟な生物である。

 互いを支えあい生き続ける事がどれだけ難しいものか思い直してみるとわかる。

 と、まあ、ここまで考えすぎると、ちょっと頭が痛くなってきた……。

 私はここらで休憩するので、あとは皆でどうぞ考えて。

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