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【エッセイ】登るべき山 ~私の人生の目的~
朝、洗面台で歯磨きをしていると、ふと、一つの言葉が思い出された。
私は毎朝鏡をみて、「もし今日が人生最後の日だとしたら、これからやろうとしていることをするかい?」と自分自身に問いかける。Noの答えが続くようなら、私は何かを変える必要があることを知る。
いわずと知れたスティーブ・ジョブズの名言だ。
今、この言葉にしみじみ感じ入る。
私は、人生に満足しているのか。
私は、これでよかったのか。
私は、このままでよいのか。
最近、こんな自問自答が増えた。
先日、34歳の誕生日を迎えた。
時間の流れがあまりにも早い。
うかうかしていると、きっと「あっ」というまに40がきて、50がくるのだろう。
その「あっ」という感覚が手に取るようにわかってしまう。おそろしい。
訳も分からずしゃかりきに働いた教員時代。休日何それ美味しいの状態。学校と家の往復しか知らない私に、それでも妻と子どもができたのは、奇跡で幸運だった。
子どもが生まれて、なぜか一安心した。肩の力が抜けた。私の命に課せられた最低限のノルマを達成した気がしたからだ。
心境に変化があった。仕事ばかりしたくない。休日にゆっくりコーヒーを飲むライフスタイルを手に入れたい。ここではない世界を見たい。そうだ、転職だ。
30を目前にして、私は、ただただ労働環境の良さ、ホワイトさ、だけを求めて、転職活動を始めた。そうして落ち着いたのが大学事務だ。
採用試験はかなり難関だったと思う。倍率は30倍を超えていた。それでも、自分は受かると思った。自分は、”使いやすく、従順な”労働者を演じるのがうまかった。
そうして月日は流れた。長女が生まれ、家はより賑やかになり、長男は小学生になった。私は事務の仕事に少しづつ慣れていき、入れ替わりの激しい部署では、古参のポジションになった。
あぁ、そして思う。日々思っている。
仕事は嫌じゃない。人間関係も悪くない。
しかし、冒頭の質問に、私はここ数年間、一度もYESを返せていないな、と。
パナソニック創業者の松下幸之助と、孫正義はたくさんの名言を残したが、実は、同じことを言っている。
松下幸之助は、
生命をかけるほどの思いで志を立てよう。志を立てれば、事はもはや半ばまで達せられたといってよい。
と言った。
また、孫正義は、
人生で登るべき山を決めなさい。登るべき山がなく人生を歩くのは、彷徨うに等しい。
と言った。
言葉には、刺さるタイミング、というものがある。
自分の人生のステージや境遇によって、光る言葉は常に変化する。
これまですっかりスルーしていたこれらの言葉に私の胸はジンと熱くなった。久しぶりの感覚だった。
あぁ、俺にも、山を決めるときが来たんだ。
やっとここから登山を始めるんだ。
そう思った。
家族が寝静まった誕生日の夜中。一人でぼーっとウイスキーを傾けながら、そんな風に感傷的に思った。
登るべき山を決めるのは、自分だ。
自分の感性と器と価値観がそれを決定する。
自分の登るべき山は何なのか。
今、とにかく必死にそれを自問している。
まだまだ粗削りで明確ではないが、登るべき山の輪郭がおぼろげながら浮かんできた。
私は、この人生を使って、たくさんのことを知りたい、と思っている。
喧騒を離れ、自然と調和し、世界をもっともっと知りたいと思っている。
そしてまた、私は、得た知識を物語や思想や記録に還元したいと思っている。要は、書きたいわけだ。
究極的には、
・時間に縛られずに、好奇心のまま思う存分本を読む。
・知識をある形(作品や記録や記事)にまとめて人の役に立つ。
という状況を作りたい。
そこでは、雇われる、という状態はありえない。
好奇心を邪魔する制限は家族以外に作りたくない。
友人も、今いる親友1人でいい。
あー、なんだ、ありきたりだねー。と言われるかもしれない。確かにそうかもしれない。
だが、これが何度も心に問いかけては、いつも返ってくる答えなので、陳腐だけれど真実なのだろうと思っている。
金持ちになりたいとか、裕福な生活をしたいという気持ちは不思議なほどない。本気でない。心から思うのは、家族を養う金と、古本を買う金さえあれば、私は幸せに生きられる、ということだ。
ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」という本がある。
思考を現実化させるには、
・明確で具体的な目標を紙に書いて、毎日朝晩読み上げること
・達成のための犠牲を決めること
・達成の期限を決めること
・達成するイメージを鮮明に持つこと
が決定的に重要らしい。
是非、やってみようと思う。
「これをやるために生きてんだよ」
と言えるのは、強さでしかない。
「これをやったから、私は今日、一歩進んだ。確実に進んだ」
と言えるのは、幸福でしかない。
労働を含め、日常には雑多な障害が無数に存在する。
しかし、山が見えている限り、道がある限り、進む足がある限り、絶望しなくて済む。
今日太陽が昇るのは、自分の山登りをするためだ、と感じられる朝が私は欲しい。たまらなく欲しい。
私は読むし、書く。
下手でもいいし、読まれなくてもいい。
そんなのは後からの問題だ。
これに命かけます、私の人生これです、と言える覚悟を持つことに比べれば、その結果など些末な問題だ。
私は歩き出す。
私は、再現性や現実性や常識や世間体を通り過ぎる。
願わくば、登った後の絶景を棺桶の中で思い出せるように。
というわけで、Noteは大事な登山靴である。
これからもよろしくお願いしたい。