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【エッセイ】バイト、その最強の教え
大学時代、最もためになった学びを書き記そうと思う。誰が読んでもほぼ間違いなく役に立つ。(と思う)
私を将来に渡って救う知恵を授けたのは、ふんぞり返った教授でもなければ、威厳たっぷりの古書でもなかった。バイトだ。そういうと、なんと貧相な、と思う人もいるかも知れない。しかし、それは違う。バイトには人生が詰まっている(こともある)。
私は大学2年のころ、とある居酒屋チェーンのオープニングスタッフのバイトに応募した。
M系列のWという店だ。市内に2号店を出すとかなんとかで、大々的に募集をかけていた。ちょいワル臭のするイケメン店長の面接を受け、その場で、「で、初日からいけるよな?」という強引な合格サインをもらった。
ご存知と思うので多くは語らないが、居酒屋チェーンには、"怖い人"がたくさんいる。一歩間違えれば、アウト、みたいな人たちが汗と血と怒号でもって、人員削減の限界に挑むエクストリーム経営、それが居酒屋チェーンなのだ。
さて、居酒屋チェーン店のオープニングとは、大イベントであり、経営戦略上のマイルストーンであり、お祭りであり、また死のパレードである。
どいうことか。私が働いた店では、三連休の1日目と2日目にわたり、オープニング感謝祭、ということで午後5時から午前5時までぶっ通しで、飲み物食べ物全品半額、というのをやった。元々リーズナブルを売りにしているチェーンだから、半額というと、ドエライことである。ポテト150円とか、刺身盛り400円、ビール250円とかそんなレベルだ。当然、あり得ないほど人が押し寄せる。オープンというだけで目新しいのに、三連休&半額である。まぁこれで来ない方がおかしい(当時はコロナのコの字もなかった)。大学生もサラリーマンも多い街だったから、もう、店内の活気が半端でなく、お祭り騒ぎだった。多分、1人くらい裸で踊っていてもバレない、というか、不自然ではなかったと思う。
話は、厨房に移る。そこは、お祭り騒ぎという生易しいものではなかった。ほぼ戦場である。Wは、厨房が5つのポジションに分かれている。①刺場、②揚げ場、③焼き場、④調理場、⑤ドリンク、である。刺場は、刺身、お通し、サラダ、デザートなどの生鮮系、揚げ場は文字通り揚げ物全般、焼き場は焼き鳥中心、調理場は、焼き飯、麺類、鍋類など。ドリンクは飲み物全て、である。
当然、オープニングスタッフなんて、右も左もわからない、ほとんど何も作れない素人なので、半額祭りなどこなせるわけがない。ということで、チェーンのオープニングイベントでは、そのエリアを担当する幹部職員(ワンピースの七武海みたいなもんだ)が、こぞって、各持ち場につく。要は、新米オープニングスタッフと百戦錬磨の七武海がペアになって、各持ち場を守る、というわけだ。これにはもちろん、新米を教育するという意味合いがある。ここで七武海を紹介しておこう。揚げ場には、県の支部長。焼き場に中四国エリア長。調理場には近隣に古くから店を出している1号店の店長。ドリンクには、これから2号店を切り盛りする新店長。そして、刺場で私とペアとなったのは、現場部隊のトップに君臨する全エリアの統括本部長であった。
ドリンク場に入る前の新店長に小声で言われた、「さすがに俺も本部長と組んだことはない、でもな、1番できそうなやつが選ばれて刺場に置かれるんだ、期待されてんだよ!死ぬ気でついていけ!」
ちょっと待て。俺が応募したのはアルバイトの求人だったはずだ。国境なき医師団とか、麻薬取締捜査官とかじゃなかったよな!?張り詰める空気と必要な気合いがどうもおかしいんだが?
時は待ってくれず、午後5時の開店を迎えた。雪崩れ込む人、人、人。もちろんホールにも幹部が並び、ヒヨコ歩きの新米女子大生に喝を入れつつ、なんとか回している。ホールスタッフが専用のハンディでオーダーを取り、送信ボタンを押すと、厨房では、これまた専用の機械からピピっといって作らなければならない料理の紙切れが打ち出されてくる。初めて出てきた紙を見た時、かなり緊張したのを覚えている。
本部長がオーダーを捌いていくのを見ながら、何回か見させてもらったものは、簡単そうなやつであれば自分でも作っていく。習うより慣れろを地でいく教育だが、これが1番効率的だということは、なんとなく被験者?の僕でもそう感じた。と、まぁこんなことを思っていられたのも束の間で、ピピっという音が止まらなくなってきた。メトロノームか?というくらい鳴る。半額セールなんて正気ではないのだから、出てくるオーダー量も正気ではないのだ。平気で15人前、とかでてくる。目線の高さにあるオーダー吐き出し機から、紙は吐き出され続け、しまいには、その紙が足元まで垂れ下がってきてしまった。1料理につき2センチの紙だから、とにかくあり得ない量のオーダー待ちが出ていることになる。
感じたことのない感覚になった。なんだこれ?これほんとに2人でできんのか?何かの冗談だろ?追いつくイメージが全くできない。オロオロオロオロして、無駄な動きばかり増える。どこに何があるのかわからなくなってくる。何を作っているのか、次に何をしなければならないのか、何が遅れていて何を伸ばしてもいいのか、さっぱりわからない。五里霧中だ。チョコアイスを出しっぱなしでエビをとりに行き、エビをとってこれずに卵サラダの皿を取ってきて、チョコをのせるカップにアボカドを避難させて、大葉を切らなきゃいけないのにエビが気になって、ピピっと機械は鳴って、包丁には卵の黄身がついていてそのままアボカドを切れずに洗わなきゃ、と思ったらアイス溶けるやん、みたいな感じである。そのうち、ホールから声が掛かった。「12卓の卵サラダ、まだ出ませんか?」恐れていた事態だ。いや、当たり前の結果か。急かされると余計にパニックになる。動揺しているのにピピっの音は、鳴り止むどころか、よりスピードを増して、今や、紙切れは、足元でトグロを巻いている。どれだけあんるんだよ。あぁもう無理だ、こんなの無理だよ。泣きそうになる。明らかに今まで感じたことのないようなパニックなのだ。隣の本部長は、「請求(客が、料理まだ?という不満をホールに伝えること)出すと、気が悪りぃんだよな!!!!!!」と言って、目が血走っている。あぁ、やばい。これはやばい。いかに本部長といえども、無理なんだ、オープニング半額セールなんて無謀なんだ…
完全に心が折れそうになった瞬間、本部長がさっきまでと打って変わって、手を止め、静かにこちらを見て言った。
「落ち着け。それから、片せ。パニックの時ほど、身の回りを片付けて綺麗にするんだよ。とにかく出しているものを全部片付けろ」
は、はい!と言って僕は、器具も食材も何もかも、料理そっちのけで、すべてポジションを元に戻した。するとなんだか、急に景色が変わったのだ。あれ、これなら卵サラダすぐ作れる!となった。溜まっている紙から卵サラダを全て取り出し、9人前作った。9枚が、はけた。出したら、すぐに使ったものを片付けた。次は、チョコアイスだ。16人分溜まっていたのを一気に出した。あれ?なんだ、種類はそんなに多くない、これを繰り返せばなんとかなるかもしれない…実際、本部長は率先して押し寿司だの刺身盛りだの手のかかる料理を鬼のスピードで提供しており、僕には数は多いが簡単な料理しか残していなかったのである。
「おう、それでええ。パニックのときこそ、きれいに元のように片付ける、これがここでの鉄則な。覚えた?」
この時、僕はなんだか、ものすごく感動したのだ。あれ、今、すごい身になること教えてもらったような気がする…この人、やっぱすげぇんだ…強烈に腑に落ちた、ということなんだろうと思うのだが、その日から本部長の教えは、厨房だけでなく、仕事場でも家庭でも、さまざまな場面で僕を救ってきた。
以上が、ことの顛末である。
本部長のアドバイスの内容が良かったのか、それとも極限の状態での教訓は、何が特別な意味があるのか、それは僕にはわからない。
でも、この教えは、頭の片隅に置いておき、いざ、というときに引っ張ることができれば、きっと誰の身をも救う、魔法の言葉なのだと思っている。
「パニックの時ほど、落ち着いて身の回りを片づけなさい」
本部長、その時、一回しか会いませんでしたが、感謝してます。今も忘れてません。