おままごとを散らかしたまま共通試験を受ける

 私の部屋はいつも散らかっている。洋服は仕舞われず、今はもう使うことのない教科書や、今現在使っている参考書などと一緒に仲良く遊び散らかしている。
 過去には何度か綺麗にしたことはあった。それでも私は綺麗にする度、不安と焦燥感、落ち着きの無さが顔を覗かせてきて、それらに敗北し続けた。だから今はもう、この散らかったままの場所をパーソナルスペースとして確立させ、他者を許さない、私だけのものとした。
 私の部屋はそのまま、私の脳に反映される……というより、私の頭の中が常にとっ散らかっているから部屋も散らかっていき、そこで過ごす私はその様子を吸収し、更に脳が散らかっていく。
 多分、これは世間的に見たら悪いことなんだろう。「多分」としたのは、私にとってこの遊び続けた空間は良いものであり、世間がどう評価するか、正確には分からないからである。区画整備された町、建築理論に基づいて安全にかつ端正に建てられた高層ビル群、そういったものが増え続けているということは、世の中は整理整頓されたものの方が良いという考えのもと作られているのだろう。
 それでも私はこの散らかりにもメリットがあると思っているから、この状態を維持している。ここでしか見えない景色があると、そういった景色を度々見たと、そう思っている故である。ある時はキュピズムのように一つのものを多角的に、ある時はダダイズムのように常識を否定、破壊する。それは、整理されただけの場所からは見えないように感じる。整理された場所に対する恐怖が私の中にあるから、それらを否定し、散らかす。そうして、私の世界、私だけが表現できる世界が広がるのである。

 闇鍋のようにぐちゃぐちゃなものは世間にとって受け入れ難い。しかし、私にとってそれは美味しいもので、それから得られるものを私のアイデンティティとしてしまった。このカオスなものからしか見つけられないもの、結び付けられないものが、確かに存在する。それを入手できる能力を持つのが自分なのだと、そう思っている。
 何もこの能力は特別なものでもないし、私しか持っていないものだとも思っていない。恐らく、地平線の果てまで行かずとも、ご近所さんでもこれを持っている人はいるのだろう。勿論、地平線の果てにも、その先にも。そうして画面の前にも。それでも散らかしている人の方が少ないだろうし(理由は後で述べるとして)、散らかり方も散らかし方も人によって違う。だから私は、これはアイデンティティになると判断した。

ぐちゃぐちゃ

 さて、ここまで述べれば「でしょうね」となるだろうが、私はノートも、計算用紙も全てが汚い。消しゴムは使わずシャーペンで上から乱雑な線を重ね、それを捨てる。そうして別のものを試し、それが間違っていたら捨てる。ドラえもんで、慌てているが故に必要な道具が見つからず、四次元ポケットからものをどんどんと投げていく様子は度々描かれる。基本的にあのシーンは映画でよく見られるが、私にとってはそれが日常なのである。そうしてノートの上が、脳内が、どんどん煩雑になっていく。そんなことをしていたら当然ながら、答えが見つかるのはだいぶ先になる。何なら、答えが見つからないことも多い。
 タイトルにもある通り、私は共通試験を直近に控えている。当然の事ながら、共通試験という時間の縛りがある中で上記のようなことをしているのは、明らかなデメリットである。脳内できちんと整理された棚の中から素早く必要事項を引っ張り出し、それを利用する。試験の勝者というのはこれをしっかり出来る人間であり、これが出来る人間は社会に出ても上の方へ行く。そういった人間が優秀であるとされることから、人がそこを目指すのは当然のことだろう。前述した「散らかしている人間の方が少ない」理由はこれだと考えている。それでも私はこの散らかった私だけの世界を愛しているからそれを捨てる気など毛頭無いし、共通試験でもこのままでいるつもりである。

 正直に言えば、私の見ている世界を壊してしまったら、私には何も残らないんじゃないかと思っている。せっせと片付けて、綺麗に、なおかつ分かりやすく並べていけば、社会に適応し易くなるのではとは思う。しかし、その状態になったとして、それは私と呼べるのか、アイデンティティを失っただけではないのかという、恐怖が足元から這い上がってくる。部屋を整理する度にすり寄ってくるものは、きっとこいつなのだろう。だから、共通試験という場においても、私はそれを捨てられないのだ。

 ここまで散々「キュピズム」だ、「ダダイズム」だ、「世界」だなんだと大層な言葉を並べてきたが、結局のところガキの我儘である。おままごとの後にその散らかった状態に満足して、それを片付けない。エントロピー増大の法則を相手にして戦う気もなく、好き勝手にさせている。そうしてそれを命綱のように大事に握っている。それが私である。
 それでも私とって、命綱のようにも、クローバーの原っぱに一本だけは得ていた四つ葉のようにも見えている、その散らかったおままごとが大事で仕方無いらしい。ならそれを抱きかかえたまま共通試験に挑めと、私は私を投げ捨ててまた散らかすことにした。

追記
 この文章を書いて考えを整理している時点で、私の考えを自ら否定しているのかもしれない。「散らかった私の中から見つけた面白そうなものを分かりやすくしただけ」とほざいて正当化しておく。割と一般的な考えだろうに。

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