不可侵
私はひとりっ子だった。母1人子1人の家庭で、
私は母から暴力を受けた。母は、双極性障害だった。
母の辛さ。私の痛み。そのふたつの間には救いようがない断崖があって、私は私の痛みしか覚えていない。
痛かったから。と1口に言うことは出来る。
いっそ可哀想だと母を蔑むことも出来る。
私は、もう母と関わりたくない。
だから、私に私の痛みを発信する権利がないのかと言うと、そうではないだろう。被害者と加害者、ヤングケアラーと障害者、今では無くなった母との関わりを私は愛おしいとは到底思えない。その関係はどちらも負の連鎖の中にある。
私に大それた事は言えない。
しかし、その負の連鎖から一時的でも抜け出した私に出来ることは?と考えあぐねていつも投稿している。
家庭環境が悪かった友達を思い出して気が沈む時。そこまで思い出のない学校の横を通り過ぎて懐かしむ時。そのひとつひとつが投稿するきっかけになる。
言わば自己満足的な投稿が多いのだ。
ひとりっ子だと自分のことを書いたが、それはつまり私に指標となる人、身近に尊敬する人がいなかったことを意味する。
楽しい時に共有する相手がいないのもささやかな不幸ではあるが相手などいくらでも探せばいいし、実際そうしていた。しかし、身近に尊敬する人がいないのは、どうしても人生に悲観的になる要素を含んでいる。将来の夢は?と聞かれた時に、石を食らったあとの様に気持ち悪くなるのはそのせいだろう。
母のことは、反面教師として見ていたが1対1の関係だと、程度が分かりにくい。それに1対1というのはお互いに思うことが多いからより負の連鎖にハマりやすいだろう。
負の連鎖と聞いて、私が一番最初に思い浮かべるのは、虐待の世代間連鎖である。だから子供は育てられないとどうしても思ってしまう。母自身、祖母から精神的な虐待を受けていたそうだし、世代間で連鎖した虐待の要因のひとつに加害者の親との関係性があるのは明白だと思ってしまう。
閉ざされた地獄だった私の実家は今も同じ場所にある。
母と私はこれから対峙するのかもしれない。そう思うと、全て投げやりたい気持ちが起こる。
ずっと先のことを考えるより今を生きる方が大事だと思うことは楽観的すぎるのかもしれない。逆に、今をよく覚えておきたいと思っていることは先行きの不透明さを憂えていることにもなるのかもしれない。
ただ少し、
息を楽に吸えるようにnoteを投稿する。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?