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私は何者になりたいのか

私は今まで、人よりも少しだけいろんな経験をして、チャンスだって掴んで、実績も少しはあるつもりだ。
それでも、何か一つどうしても諦めきれないものとか、どうしてもやり続けたいこととかがあるかと言われれば特に思い当たることはない。自分にしかない才能とか、人よりできることとかも特にない。
それでも、やる気だけはありますとか、思いはありますとか最近よく言うけど、もっと本気で取り組んでる人だってたくさんいるわけだ。

今やっている地域活動、部活動、生徒会活動、勉強、その他いろんな活動だってそりゃやりたいと思って選んだことだし、選んだからにはやり遂げるという固い意志もある。それでも、熱意が足りていないとかを抜きにしても、なんで私がそんな活動をしているのかの答えは薄っぺらい表向きな理由しかないように自分では思えてしまう。

やっぱり、
自分は田舎から出てきて地元を大切にしようとしなければいけない
これまでたくさんの人に期待してもらってきたから何か結果を残さないといけない
世の中で求められることをなにかしなければいけない
大学卒が欲しい
人より自分ができるんだと思われたい
たくさんの機会が欲しい
人間が好きな人間になりたい
誰からも好かれたい
人から羨ましがられる人生が送りたい
圧倒的な差が欲しい
そんな図々しく、馬鹿馬鹿しい言葉の塊しか出てこない。

どれだけ私が郷土愛を語ったとて、私は都会で暮らしたいし、どれだけ私が話すことが好きだと言ったって話すのが苦手という事実も、人に深入りしたくないというこの気持ちも変わることはないみたいだ。
周りの人が求める、夢を持ち、郷土を愛し、地元のために動く高校生になろうとして、それを活かして自分が行きたい大学や職業に繋げてやろうと思ったってそんなの全部こじつけで考えるうちに反吐が出そうになる。

ある映画にこんな言葉が出てくる。
「心の中にきらりと光るものが一つあればそれだけで生きていける」
私にとってそのきらりと光るものはなんだろうか。

こんな凡庸な言葉を並べて、何がしたいのか。
人の言葉一つ一つに圧倒的な「本当の力」を感じて自分にはそんな力がないともうずっと前から理解しているのになぜ、まだ言葉に執着するのか。

昔から誰かに構ってもらいたくて、話を聞いて欲しくて、褒めてほしくて、他の人とは別の存在だと思われたくて生きてきた。先生が欲しそうな言葉を発して、相手が喜んでくれそうな言葉をテレビから盗んでいた。そのおかげで「いい子だね」と言ってもらえた。それでも、そのうち限界が見えてくる。「本当の力」には勝てない。その人が素直に思ったことをそのまま発する。そんな言葉の力には勝てない。聞いたことのない比喩には私にない感性が詰まっていて、言い方によっては不快にさせる言葉でも素直だからそのイメージが伝わる。先回りをしない、相手のことではなく目の前にあることにだけフォーカスした言葉は子供の時に子供の中にいられた人の特権だろう。
構ってほしくて大人に色目を使う子供の私の言葉とは全く重みが違う。
誰かへの承認欲求でしかない言葉はつまらない。
力を持っていない。

でも、困ったことに私から書くことを取り上げるのは生きながらの死だ。

私の中には言葉はきらりと光っていない。
むしろドス黒い承認欲求という油にまみれたシャベルだ。
自分の心を救おうとして、使い古した油でまた汚して、心を落とす。

誰にも届かない、美しさも、現実味も、重さも、力もない言葉を使ってこれから私は何をしようか。
私は何者になるのだろうか。

薄っぺらい、評価のためだけに生きているような自分に価値はあるのだろうか。
今更、素直な言葉なんてわからないし、何も知らない女子高校生にはなれない。

自分は経験だけ持った空っぽな人間という者になっていやしないだろうか。



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