【つながる旅行記#304】広島市の袋町小学校で平和を想う【袋町小学校平和資料館】
前回はカープな空気感に包まれて真夏の広島をうろつき、袋町小学校に到着した。
さて、広島に来ると決めた時点で薄々感づいていた方もいるかもしれない。
ここは『袋町小学校平和資料館』。
原爆の歴史を今に伝える場所である。
そう、自分は原爆に関する知識を深めるために広島へ来たのだ。
東日本出身で基本ひきこもりだった自分にとって、広島や長崎は本当に縁遠い場所であり、この2つは恐らく東日本の学校では修学旅行でもあまり選ばれることがない場所でもある。
なので自分の中で原爆というものに関する実感が全然ない。
そもそも自分はこの旅行を始めて多くの博物館を巡るまで、日本のあらゆる都市に空襲があったことすら知らなかった人間である。
自分の出身であるド田舎には空襲もなかったし、それゆえに悲惨な戦争の歴史も全然伝わっていなかったのだ。
戦争体験に関しては実際に戦場へ行った祖父に聞かなければ身近に感じる事もできなかったし、かといって祖父にストレスを与えそうなそんな会話を進んでしようとも思わなかった。
だからこそ、現地まで来て学びに来たわけだ。
袋町小学校(当時は袋町国民学校)についてちょっと解説すると、原爆の爆心地から約460mの場所にある。
この学校は広島の発展とともに児童数が増えまくり、昭和初期には1600人の児童が学んでいたマンモス校だったという。
そして1937年に完成した西校舎は、『鉄筋コンクリート造の地上3階建+地下1階』でダストシュートと水洗便所付きという、当時ではかなり進んだ作りの校舎だった。
だが1945年の8月6日、原子爆弾が落とされる。
時刻は午前8時15分。
朝礼のために校庭に出ていた教職員と多くの児童が直撃を受けた。
当時存在した木造校舎は全て倒壊・全焼し、鉄筋コンクリート造の西校舎も、その外郭のみを残してあらゆるものが焼失したという。
その後、ボロボロの校舎は救護所として活用されることになる。
煤で黒ずんだ階段の壁は伝言板として使われ、のちに小学校の建て替えの際に漆喰を剥がしたところ、その伝言が壁の中に残っていたことを発見。
それが平和資料館として校舎の一部が残ることになったきっかけでもある。
残念ながら原爆の直撃を受けた多くの教職員と児童は助からなかったわけだが、ほんの数人ではあるが生き残った人もいる。
その中の一人である友野典弘さんの話をしよう。
8月6日、弟と石蹴りをしながら登校していたら学校に遅刻してしまった友野さん。
そのせいで学校につくと先輩に捕まるのだが、そこでB-29の音が聞こえてきたため、友野さんは地下1階に急いで逃げたという。
校庭には児童たちが整列しているのが見えたが、地下にある下駄箱で靴を履き替えている最中、突如ピカッと何かが光ったと思うと、その後凄まじい衝撃で友野さんは吹き飛ばされて気を失った。
どれくらい気を失っていたのか、気づくと周囲には砂埃が舞い、友野さんは体を壁に打ち付けてガラス片も足に刺さっていた状況だった。
しかし怪我は負ったものの、偶然にも鉄筋コンクリート造の地下室に居たことが友野さんの命をかろうじて救ったのだ。
だが、先に靴を履き替えて階段を登っていた弟は犠牲になってしまった。
こんな出来事が日本であったなんて今まで全然実感していなかったが、こうして現地で話を聞き、それが起きた実際の建物を見ていると、否が応でも現実だったんだなと思わされる。
やはり来たのは間違いではなかった。
正直なところまだまだ自分の中で考えはまとまっていないのだが、原爆に関する知識を学ぶ場所はこの広島に多くある。
次の場所へ向かおう。
次回へ続く…