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【つながる旅行記#245】杉原千畝と『命のビザ』【敦賀ムゼウム】

前回はなかなか凄いことをしているのに知名度が低すぎる気がするポーランド孤児について学んだ。

では今回は敦賀ムゼウムのもう一つの重要展示、杉原千畝関連の話をしよう。

なかなかの有名人なので、自分も「奇跡のビザ」の話はどこかで聞いたことがあったが、詳細を知っているかといえば微妙だ。

それではあえて、杉原千畝の幼少期から見ていこう。

偉人の子供の頃って気になるものだし。



【杉原千畝の幼少期】

杉原千畝の生まれは岐阜県美濃市

誕生日は1900年1月1日という素晴らしい覚えやすさで、年代を見れば何歳の頃かがすぐわかるので非常に助かる。

なお杉原千畝の父は税務官吏だったためか異動が凄まじく、幼少期の千畝は転居と転校を重ねている。

・1903年に福井へ転居。
・1904年に三重に転居。
・1905年に岐阜へ転居。(1906年に中津尋常高等小学校に入学
・1907年に三重の学校に転校。同年12月には愛知の学校に転校

なんかもう異動させすぎだろと思ってしまうが、愛知への転校のときには父親は韓国統監府(朝鮮総督府はまだない)に単身赴任しているくらいなので、きっと優秀な人だったのだろう。

そんな優秀な父の血を受け継いだ千畝も同じく優秀だったようで、学力面でも性格面でも非常に評価が高かった。


そして千畝は中学で教わった英語との出会いで語学の面白さに目覚め、「英語を使う仕事をするぞ!!」という目標ができるのだ。

だが父親は千畝には医者になってほしかったので大反対。

しぶしぶ父の勧める京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)の受験を受けに行った千畝だったが、テストは白紙提出で弁当を食って帰る。(ワイルド)


その後、千畝は親の言うことを聞かずに早稲田大学の英語科へ進学。

親の仕送りはないのでバイトをしながらどうにか生活していたが、シベリア出兵による米の需要増加を見込んだ買い占めで起きた米騒動の影響で、バイト先が次々消滅していく。

もうダメかもしれないと思いきや、新聞で外務省の留学生募集広告を発見。

勉強期間は1ヶ月しかなかったが、そこはさすがの千畝。

猛勉強してしっかりと受かっちゃうのだった。


【満州外交部時代の千畝】

1919年、早稲田大学を途中退学し、千畝は外務省の官費留学生となる。

だが英語で大活躍する予定が、まさかのロシア語を学ばされることになってしまった。

しかし千畝はめげることなく、少しの暇があればロシア語の勉強に励み、1924年には「もう学生じゃなくてハルビン学院で講師を頼むよ」と言われるくらいのロシア語の使い手として成長していた。

ハルビン

24歳の頃、ロシア革命から逃れてハルビンに来ていた白系ロシア人の妻(クラウディア)とも結婚した千畝。

北満鉄道讓渡協定などで有能な働きを見せたりと、仕事も順風満帆に思えた千畝だったが、どうにも世の中がきな臭くなってきた。

関東軍の横暴は日に日に目立ってきており、千畝に対しても「スパイになれ」と強要してくる始末。

その傲慢さに嫌気がさして千畝は外交部を辞めることにするのだが、関東軍は要請を拒否した千畝に対して、「杉原のロシア人妻はスパイらしいぞ」という情報を流布する。

それが要因で千畝はクラウディアと離婚することになってしまうのだ。

千畝は申し訳なさで満州時代の蓄えをクラウディアとその一族に全て渡し、無一文で日本へ帰ることになった。

もうこんな若い軍人の横暴に関わりたくもないし、中国人への酷い扱いも見てられない…


東京へと戻った千畝は、日本の外務省で勤めることになる。

日本に戻って再婚もしたものの、もう記念写真1枚撮るお金もなかった……。

(いやその状態で結婚できるのも凄いが)


【外交官時代の千畝】

1937年、千畝はヘルシンキの在フィンランド日本公使館に赴任することになった。

本来はモスクワの日本大使館に赴任するはずだったのだが、ソ連側が千畝に対して「ペルソナ・ノン・グラータ」(外交官受け入れ拒否)を発動したためだ。

発動の理由は、千畝の白系ロシア人(ロシア革命から逃げてきた人)との関わりだとか、北満鉄道讓渡協定での千畝の有能さが危険視されたとかいろいろ言われているが謎である。

ともあれ、ソ連がすぐそこにあるヘルシンキにやってきた千畝。

ヘルシンキ(画像中央)

そしてこのとき、ソ連にほど近いバルト三国周辺に、千畝を含む6名のロシア語が堪能な人間が集められていた。

1938年にはパリの日本大使館から「千畝さん優秀だからこっちで使わせてよ!」という話も出ていたが、これを外務大臣が拒絶している。

なぜならロシア語が堪能な人間には他にやらせたいことがあったからだ。


なおこのとき、もうすでにナチスによるユダヤ人迫害が行われており、ユダヤ人の一部が逃げ始めていた。その一部は極東を目指す動きがあったのだ。

近衛文麿はこれに関してこんな感じのことを言っている。

ドイツやイタリアで排斥されている避難民(ユダヤ人)を日本に受け入れるのは大局上よろしくない。

そもそも日中戦争をしている我が国ではこれらの避難民を収容する余地もないのが実情だ。

(まあ通過なら良いけど)

そう、この時点でもう日本は国民の食料も配給制なのだ。
朝鮮と台湾で米が思うように収穫できなかったし。(タイ米記事参照

日本に大量の難民を受け入れる余裕などないのである。


そして1939年8月28日、千畝はリトアニア共和国のカウナスにある日本領事館に着任。(民家を使用)

着任直後の9月1日、ドイツによるポーランド侵攻が行われ、第二次世界大戦が始まった。


千畝は悟る。

ここでドイツ軍やソ連軍に関する情報収集をして参謀本部に報告するのが自分の役割なのだ。

そう、カウナスという日本人が全くいない場所に突然領事館を置いたのはそういうことなのだ。

千畝によるリトアニアでの情報収集任務が始まった。

リトアニア(カウナス)

【ソリー・ガノールくんとの出会い】

リトアニアに住むソリー・ガノールくん(11歳)の家庭では、ポーランドから逃れてきたユダヤ人たちを家に匿っていた。

ソリー・ガノールくんは人々に手を差し伸べる親の姿に感動し、ある日お小遣いを全て難民救済のために寄付する。(すごい)

だが見たかった映画が見れないことに気付いて速攻で後悔し、お店を営む叔母の下へ「お小遣い貰えないかな」と向かったのだった。


するとその店にまさかの杉原千畝が買い物に訪れていたのだ。

叔母からソリー・ガノールくんの献身的な行いを聞いた千畝は、「僕が君のおじさんだと思ってくれ」と、ソリー・ガノールくんにお小遣いを渡した。

それに感激したソリー・ガノールくんは、「ぼくのおじさんなら家でするハヌカのパーティに来てください!」と千畝を誘う。

(ハヌカ:ユダヤ教の年中行事の一つ)


その後ソリー・ガノールくんの家にやってきた千畝は、家に匿われていたユダヤ人たちからポーランドで起きたことや逃避行についての凄惨な情報を聞き、ユダヤ人の置かれている状況を知る。

(この家での体験が千畝の中に何か考えが生まれた瞬間かもしれない)

そして、「早く逃げたほうが良い」と助言したのだった。


なお、助言を受けていたソリー・ガノールくん一家は国外脱出に失敗する

ゲットーに送られて過酷な収容所生活を送った後、死の行進の最中に雪の中に倒れ込んで埋まっていたところを、アメリカ軍に助け出されるのだ。

ソリー・ガノールくんは朦朧とする意識の中で、「杉原さんが助けに来てくれた」と思ったという。

助けてくれたのはクラレンス・マツムラ軍曹
まさかの日系アメリカ人部隊である。

不思議な縁もあるものだ。


【オランダ領事のキュラソービザ】

ナチスの行為にキレているオランダ領事がいた。

名前はヤン・ズヴァルテンディク

オランダ企業フィリップスの工場責任者だった彼だが、オランダが1940年5月にナチスに占領され、今はリトアニアのカウナスでオランダ領事の任についている。


1940年6月、リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト三国はソ連に占領され、リトアニアのカウナスにもソ連軍が侵入してきていた。

そんな中で、彼はあるユダヤ人女性の発想を元に、オランダ領西インドのキュラソー島へ向かえるビザをパスポートに書くことを開始する。

実際にはキュラソー島には行かないので、あくまで形式上の目的地ではあるが、とにかくヨーロッパからの脱出が第一なのだ。

このビザでユダヤ人たちをナチスの手から救えるかもしれない。

オランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクは、こうして通称「キュラソービザ」をユダヤ人たちに発給しまくることにしたのだった。

キュラソー島(実際に行くわけではない)

なお、当時のソ連はまだ「日本のビザがあるならソ連を通ってもいいよ」と言っている状況だった。

ソ連としては、リトアニアは占領予定なので無駄に難民がいても邪魔だし、シベリア鉄道を使って金を落としてくれるならその方がよかったのだ。


だがキュラソービザだけあっても意味がない。
経由地となる日本のビザがなければ、ソ連は通過できないのである。

そんなわけで、ユダヤ人たちはキュラソービザを手に、杉原千畝が居る日本領事館へ向かったのだった。


【杉原千畝の命のビザ】

リトアニアを占領したソ連の要請によってリトアニア内の各国領事館はどんどん閉鎖させられていた。

各国の領事館が情報収集機関なのは明らかなので、はっきり言ってソ連にとっては邪魔なのだ。

そんなとき、まだ閉鎖していなかった日本領事館にいた千畝は、7月18日の朝、外がすごく騒がしいことに気づく。

そこには領事館の鉄柵ごしに何かを訴える100人以上のユダヤ人の姿があった。


千畝はユダヤ人に何が起きているかは情報収集を通して知っている。
だが千畝のカウナスでの役目は情報収集であって、ビザ発給ではないのだ。

千畝は外務省に対応を問い合わせた。

だが何度問い合わせても外務省の返答は「行先国の入国許可手続を完了し、旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証を発給せよ」というもの。

それは難民が達成できるわけがない条件だった。


千畝は板挟みの中、独断でビザの発給を決定する

条件を満たしてなかろうが、人道上どうしても拒否できないと考えたのだ。


ビザは最初は手書きで手数料を取ったりもしていたのだが、もう間に合わないということでユダヤ人の手先が器用な人にスタンプを作らせたりしつつ、大量発給を開始。

寝る間も惜しんで1ヶ月書き続け、その総数は2000通を越えたという。

手に入れた千畝のビザを使用してシベリア鉄道に乗り、ウラジオストクへとたどり着くユダヤ人たち。

そしてウラジオストクからは船で敦賀へ渡り、地元民のもてなしを受けながらその後神戸や横浜経由でアメリカなどへ渡っていったのである。


千畝の行動によって救われたユダヤ人たちとその子孫は、今も彼への感謝を忘れない……!



そこそこ無理やりに締めたが、これが「命のビザ」の大体の概要だ。

東洋のシンドラーと称される杉原千畝だが、彼が救った人数は何千人にも及ぶ。

そして今回始めて知った、キュラソービザの発給と、それを助言したユダヤ人女性は凄いなと思う。

やはりユダヤ人は賢い……いや、命がかかってるんだから必死にもなるか。


なお、外務省の命令に背きまくりな杉原千畝は相当怒られていたりする。

(もちろん怒られてもビザの発給は続けたのだが)

そして終戦から1年間は家族全員ソ連に拘束されており、ソ連での過酷な状況を乗り越えて帰国したと思ったら、今度は外務省から退職勧告がされるというなかなかハードな対応をされるのだ。


今でこそ「命のビザ」と褒められている千畝の行為だが、戦中だけでなく戦後も外務省としてはあまり認めたくない行動だったらしい。

あくまでも当時の国の方針としては「難民を国に入れるな」という方針だったので仕方ないが……(いや今もか?)

世間の人の発言の中には、「ユダヤ人から金を貰ったからあんなにビザを書いたんだろw」という、もはや誹謗中傷レベルのものまであったとか。


一応、2000年に日本国政府による公式の名誉回復がなされたが、その頃にはもう千畝は死去している。(満86歳没)


なんだかなあ……。


そして忘れてはいけないのは、杉原千畝のビザだけでどうにかなったわけではないということだ。

例えばウラジオストクの日本領事館にいた根井三郎もまた、外務省から「条件を満たしてない人間は日本国内に絶対入れるなよ!!」という指示を受けていた。

彼もまた、続々とウラジオストクに集まってくる千畝のビザを携えた難民たちと、「絶対日本に入れるな」という外務省の指示との板挟みになっていたのだ。

根井三郎はどうしたかというと、「杉原領事が一度OKしたものをなかったことにはできません。官僚の形式主義ってそういうものでしょう?」という理屈で、ユダヤ人を連絡船に乗せまくった。


そして日本へ向かう連絡船の中には、米国ユダヤ人協会からの依頼を受け、ユダヤ難民救済協会から送られた現金をユダヤ人に配る日本交通公社(現JTB)の社員もいた。

(難民は資金面で問題を抱えていたが、こうやってユダヤ協会が支えていたのだ)

また日本交通公社は敦賀に入港後、神戸や横浜への鉄道輸送の手配も行ったという。


なんだかこうしてみると、本当に多くの人の協力があったからこその救出劇だったんだなと実感する。


そんなわけで「人道の港 敦賀ムゼウム」……というかポーランド孤児杉原千畝でした。

時には命令違反をしてでもやるべきことがあるのかもしれない。

まあ自分はそんな立場に立ったことがないのであれだが、人生をかけてキャリアを築いてきた人ほど、こういう人生を台無しにしてしまうかもしれない選択は難しいんじゃないかと思う。

なので杉原千畝はやはり凄い人なのだ。


……あと、仕事を失っても問題なく自立できるスキルって大事だなって。

(語学力とか)

それでは、知識は十分すぎるほど補充したので山でも登ろう。

この近くには金ヶ崎城跡がある。

久々の軽い登山、やはり自転車は借りなくて正解だったのかも?


歴史を噛み締めつつ、次回へ続く……!


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aosagi
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