いまさら『火星の人』を読んで、別の意味で打ちのめされる
アンディー・ウィアーの名作SF、『火星の人』。
世間が最新作の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んで、もうあらかた感想も語り終えている今、自分が読んだのは『火星の人』。
なぜ普段SF小説を読まない自分が『火星の人』を読んだのかといえば、
小説家の西尾維新が240の質問に答えるフリーペーパーの中で、
「一番影響を受けた(リスペクトしている)作家と作品は?」という質問に対し、「アンディー・ウィアー著『火星の人』」と答えていたからだ。
自分の好きな作家がリスペクトしている作品なんだから読むべきだろう。
自分はそんな理由で動きがちな人間である。
好きな漫画やアニメの舞台になった場所には、四の五の言わずに聖地巡礼に行くのだ。
そして上下巻、計10時間ほどかけて読み終わった。
……面白かった。
もはや『火星の人』の感想なんて、ネット上を検索すれば腐るほど出てくると思うので、ここでは語らない。
なにせ当初無料で公開していたものが、ファンの求めで電子書籍になり、紙の本になり、映画化までされたのだから、面白くないわけがないのだ。
なのでここでは、自分が小説を読んだときに毎回悩まされることを書こう。
それは、”情景が思い浮かばないこと”だ。
いや正確に言うと、おぼろげな、正確なのかわからない何かは浮かんではいる。
例えば、この作品の舞台である火星に作られた「居住空間」についても、自分なりの物体がなんとなく浮かんではいるのだ。
しかしおそらくそれは正しくない気がする。
自分が今まで読んできた小説やライトノベルの中には、アニメ化されたり映画化されたりしたものはいくつもあるが、体感で9割くらいは自分が想像していたものとは違うものが映像作品の中に現れる。
こんなことを何度も繰り返していたら、自分が小説を読んだ際に頭に浮かぶものを信用できなくなって当然である。
「作者が意図したものとは違う何かを想像しちゃってんだろうな……」と思うと、自然と小説からは遠のいた生活になった。
そしてこの『火星の人』でもその現象は見事に再現され、あってるのかもわからない風景をずっと頭の中に描きながら読み進めるのは、なんとも言えない心情だった。
小説というのは、数行読み飛ばしてしまうだけで重要な情報が欠落したりする。自分の10時間の読書体験の中では、当然常に100%集中していたわけでもないし、いくつもの行や単語を読み飛ばしていたことだろう。
それが積み重なった果てに至ったラストでは、「面白かった……!!」という感想は生まれはしたが、(まあどうせ本当はこんな風景じゃないけど…)という変なしこりが残った感動ではあった。
これは作者の文章力が駄目とか翻訳がどうとかではなく、自分の能力に依存するものであることはなんとなく察している。
「漫画じゃなくて本を読め。バカになるぞ」なんて昔の人は言っていたものだが、本を読んでも駄目な人間もいるんじゃないだろうか。
そういう自分みたいな人は、せっかくの余暇時間を小説ではなく、漫画や映像作品に使ったほうが幸せになれるんじゃないかなと、正直思ってしまうのだ。
長々と書いてきたが、この『火星の人』のいいところは、すでに『オデッセイ』として映画化しているので答え合わせが可能ということ。
もしかしたら、自分の頭で想像していた『火星の人』の世界観がドンピシャで当てはまっている可能性だってなくはない。
そう思うと、なんだかもう映像作品を見たあとに小説を読んだほうが良いんじゃないのかと思えてしまうが、”小説だからこその仕掛けによる面白さ”というものも世の中には存在するのが、なんとも悩ましいところだ。
著者の最新作である『プロジェクト・ヘイル・メアリー』も、「映像化は難しいんじゃないか?」とかいうレビューをちらっと見たので、小説ならではの何かが仕掛けられている気配がすごくする。
映画を先にするか、小説を先にするか……悩ましいところだ。
とはいえ久々にSF小説を読んで楽しい気分にはなれたので、そろそろ柞刈湯葉作品に手を出すときなのかもしれない。
自分の聞いているいくつかのポッドキャストで勧められまくりなのだ。
ああもう、本当に世の中は一生使っても足りない娯楽で溢れている。
とりあえず、映画の『オデッセイ』はそのうち見ないとだ。