【つながる旅行記#99】in稚内 『北方記念館』へ突入。
ここはロシア……ではなく、北海道の稚内だ。
前回の五稜郭からまた随分と離れたものだが、またこうして旅行記の始まりの地に戻ってくる機会を得た。
とはいえ今日はもう夕方である。
夏が近づき、日が長くなったのでまだ昼のように感じるが、もう18時を回っている。
観光などできそうもない。
しかし懐かしくなったのだ。
あの開基百年記念塔が。
行こう。また塔へ。
(ちなみにこの墓場経由ルートじゃなくても行けることに気づくのは、まだ先の話……)
あの方面が日本最北端、宗谷岬がある方向。
ズームしてみると風力発電がたくさん並んでいるのがわかる。
これが稚内市の電力を支えているのだ。(#13参照)
そして墓地へ。
昔の自分だったら夕方に墓地なんて行かなかっただろうに、
人間変わるものだなと……
!?
エゾシカが出迎えてくれた。
そう、稚内は夕方ともなると人気の少ないところは動物たちの独壇場になるのである。
このシカも、こんな時間に墓にくる人間にびっくりしたことだろう。
さて、シカはともかく塔へ向かおう。
今回も良い感じでそびえ立っている。
というわけで到着。開基百年記念塔だ。
あいかわらずの素晴らしい展望。
利尻か礼文から帰ってきたフェリーも見えた。
稚内に戻ってきたことを実感する。
初めてここに来た1年前から自分は果たして変われたのだろうか……。
いや肉体的には強化された自覚はあるけど。(徒歩で)
……さて、じゃあもう日も落ちそうだし帰ろう。
ここらへんはヒグマが出るとか聞いたような気もするし。
そんなことを考えつつ、記念塔の入り口をなんとなく撮影してみる。
何かを確認するとき歩いて見にいくのが面倒なので、こういうズームの使い方をよくやるのだ。
開館している……?
もう19時になりそうな時間だというのに……?
まさかの21時までやっている。
(どういうことなの……?)
博物館なんて17時には閉まるところしか知らない。
ほ、ホントにやってるの……?
開館中だと知ったら入っちゃうのは当然である。
入口に入ってすぐのところには動物たちの剥製と間宮林蔵の年表があった。
間宮林蔵といえば、樺太に渡り間宮海峡を発見したことで知られる。
間宮林蔵が間宮海峡を発見するまで、樺太が島なのか半島なのかで色々言われていたのだ。
住んでいる人たちは「そりゃ島だよ」と言っていたのだが、「いや本当は半島なんじゃ……」という意見もあり、そんなこんなで間宮林蔵が遣わされたのである。
年表を見ていると、自分の中でおぼろげだった間宮林蔵がはっきりとした人間として認識できるようになってきた。
今のつくばみらい市で生まれて、20歳であの日本地図で有名な伊能忠敬と出会って弟子になり、さらにシーボルトとも会って……。
なんだか間宮林蔵の自伝も読みたくなってきた。
これは掘ったらいろいろ出てきそうだ。
このストーブ(カッヘル)は、函館で制作していたストーブが冬までに間に合わないことが確定し、こりゃヤバいとアイヌに作らせてみたら、軽くて耐久性があり、しかも値段も3分の1で作れたという代物だ。
その後は北海道の各地で配備されたという。
そんなアイヌが暮らしてきた北海道だが、日本にもロシアにも攻め込まれて色々あったのはなんとなく知られていることだろう。最終的に日本の領土ということになったが、以下の画像を見ると各地で事件が起きまくりだ。
日本の領土となったのちは、当然警備を配置しなければならなくなった。
なにせ宗谷は対ロシアの最前線。(今も同様だ)
そこに最初に派遣されたのは、まさかの津軽藩。
北海道回で青森要素が出てきて感無量である。
津軽藩から宗谷に230人、斜里に100人を置き、翌年まで警備についた。
新しい土地の防衛に燃えまくりな津軽藩兵だったが、ロシアは来なかった。
そして冬の準備に追われることになる。
だが完成した陣屋は板の間にゴザやムシロを敷いただけで、函館や松前にお願いしていた冬用の服や布団は、注文の半分も準備されなかった。
(命を何だと思って……?)
そして年明けに病人をチェックすると、重病者54名、病気になってないのは2名だけという地獄絵図になっており、宗谷の津軽藩兵は32人以上が水腫病でこの世を去ったという。
なんだこの酷い話は……。
そしてこれは宗谷の寝棺。
冬を越すには、毎晩この箱の中で寝るしかなかった。
下から笹の葉、熊の毛皮、布団である。もちろん寝る時は蓋を閉める。
(過酷すぎるだろ……)
この床に展示されているのは伊能図。
実は伊能忠敬が測量したのは函館から別海までで、その後は弟子となった間宮林蔵が引き継いで北海道の測量を完了させた。
てっきり間宮海峡だけの人と思ってたが、めちゃくちゃ伊能図の作成に重要な人だったようだ。
樺太にはいくつもの異なる北方民族が住んでいた。
自分はなんとなく「全部アイヌなんでしょ?」と思いこんでいたが、その認識は改めなければならない。
そして突如出現した謎の石。
これは日露戦争後に決められた、樺太の国境を定めた石。
昔は日本も外国と国境を接していたんだなぁ……。
そして1945年に樺太国境を越えて襲撃してきたソ連軍により引き起こされた悲劇の歴史も展示されている。
電話交換手の彼女たちは、最後まで役目を果たし、最後は自決した。
(#3参照)
なんだか最後はちょっとしんみりしてしまったな……。
気分を変えて、展望台にでも行こう。
いや暗いな!!
(っていうかこの後歩いて帰るんだよね……?)
間違いなくいつも通りの行動だったら見れない景色が見れた。
それは良かった。
でもこれ以上ここに居たら、本気で帰り道がヤバいことになりそうだ。
帰ろう!
気がついたら時刻はそろそろ21時である。
そりゃ暗いはずだ。
まさか閉館時間まで滞在していたとは。
もはやこのコンデジでは暗所モードでも厳しい。
しかしなにかが居る気配がするんだよな……。
ちょっと撮ってみるか。
……パシャッ(撮影音)
いやキツネだこれ!!
(そして誰に向けたおすわり!?)
いやはやまさかの最後にキツネにも会えたし、なかなか素晴らしい体験ができた。
百年記念塔。また来よう。
次回へ続く…