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BAR自宅、たまご酒
バーには黒猫がいる。
テーブルの向こう側に座る、真っ黒ツヤツヤの毛並みと金色の目、くたくたのやわらかい体が自慢の、ねこが。
疲れた…と彼女は呟いた。
歩きながらどさどさと荷物を下ろし、いつものテーブルを素通りして、床に転がるクッションへスーツのままダイブした。少しめくれたスカートも、大きく乱れたジャケットも、シワになるだろうにそのまま動かない。
かかとの擦り切れかけたストッキングの足を投げ出して、ゆっくりと深い呼吸が聞こえてくる。
ひと呼吸ごとが溜息のようで、まるで身体の内側に溜まった何か重たいものを吐き出しているみたいだった。
「お風呂入りたくない……面倒くさい……」
呪詛のように呻いて、ばた、と一度手足をばたつかせる。
それでスーツの居心地の悪さを思い出したように、彼女はのっそりと身を起こした。
ジャケットとストッキングだけ脱いで、放り出した買い物の袋からお弁当を引っ張り出す。
「あー……」
少しばかりおかずが乱れてしまったようだが、まあ味に問題はないだろう。
黒猫はいつもの定位置で、今夜の彼女はバーメイドにはならないだろうと思った。ならば猫は猫のまま、飼い主が眠るまでの時間を見守るだけだ。
電子レンジで温めたお弁当をもそもそと食べ、面倒くさい面倒くさいやだやだと泣き言を言いながら彼女はバスルームに向かっていった。シャワーの音が聞こえてくる。本当は疲れているときほどお湯につかったほうが良いのだけれど、猫のアドバイスが聞き入れられたことはない。聞こえていないので。
雨に降られた野良猫のようなぺっしょりとした風情で入浴を終えてきた彼女は、濡れた髪をもそもそと拭きながら、ぼんやりと床のラグに座り込んで壁にもたれた。いつものスツールは休むための椅子ではないので、こういうときには出番がないのだ。
もう一度、深い吐息。けれど先ほどよりはほんの少し、温かく緩まっている。
早く寝たほうがいいよ。
スツールに乗せられたまま、高い位置から黒猫は声をかける。
しかしそれも虚しく、飼い主はぼんやりしたままこくりこくりを舟をこぎ始めた。
髪が濡れたままだと風邪ひくよ。
黒猫は一生懸命に訴える。飼い主には、聞こえていないのだけれど。
彼女がうたた寝をしたのはほんの十五分程度のことだった。それでもやっぱり身体は冷えてしまっていたようで、目を覚ますなり、くしゅんと小さくくしゃみをする。
「……寝てた……」
立ち上がる動作も鈍い。うーんと声を上げながら伸びをして、乾き始めた髪をかき上げ、彼女はぽつりと呟いた。
「たまご酒かな」
日本酒、卵、お砂糖。
材料を前にやや逡巡する。適当に作るか、きちんと作るかを迷っているのだと、黒猫には分かった。
面倒だし、疲れているし、洗い物も出るし。考えていることが手に取るように分かる。
彼女はうんうん言いながら顔をしかめて天を仰ぎ、しばらく唸って、意を決したように鍋とボウルを手にした。きちんと作ることにしたらしい。
卵をボウルに割り入れて砂糖を加える。小さなホイッパーでかしゃかしゃと泡立つくらいまで混ぜたら、小鍋に日本酒をそそいで火にかけた。よそ見をしないで透明な液体が温まっていくのを観察している。部屋にお酒の香りがふんわりと満ちていった。
ちょうどいいところで火からおろし、卵液と一緒にマグカップにそそいで出来上がりだ。
舌先でちょっと舐め、「ん、美味しい」と頬を緩ませて、彼女はのそのそとスツールに腰を下ろした。
疲れ果てたバーメイドが力を振り絞って作ったホットカクテル。
ひと口飲んで、ほう、と今度こそようやく緩み切った呼吸をした。
「あったかい」
染み入るように呟いてまたひと口。温かいアルコールを飲むに従って彼女の頬は血色をよくしていく。
黒猫はホッとしてふすんと鼻から息を吐いた。ようやく訪れた休日を体調不良で過ごすことほど悲しいことはない。ベッドで飼い主の不調に付き合うことになる黒猫としては、そんな機会は少ないに越したことはないのだ。
とろり、ふわふわの、金色のお酒。美味しいうえに身体にも良い。
疲れのせいかやや酔いの回った目をした彼女は、最後のひと口を飲み干したあと、しばらくカップの温もりを手のひらで楽しんだ。
身体が温まってるうちに寝るんだよ。
黒猫は声なき声で言う。
すると彼女はそれが聞こえたかのように黒猫を抱き上げた。
「あったかいうちに寝ようね」
そうしよう、そうしよう。
洗い物は全部、明日の自分に任せて。
お酒とたまごがお腹を温めているうちに。
風邪をひかないように――おやすみなさい。
ここは週末開業のBAR自宅。マスターは真っ黒猫のぬいぐるみ。
バーメイドは彼女ひとり。
客もいつも彼女ひとり。
今夜は暖かくして休みましょう。
今週も、お疲れさまでした。
【たまご酒】
・日本酒・・・180ml
・たまご・・・1個
・砂糖・・・・大さじ1~2
たまごと砂糖をよく混ぜてふわふわにしてカップに入れておく。お酒は沸騰する寸前くらいに温めて、ゆっくりカップに注ぐ。たまごに火が通ってとろとろになったら出来上がり。
アルコールの飛ばし具合や甘さは適宜調節できるので、お好みの仕上がりにしてみてください。
全部混ぜてからレンジでちょっとずつ温める、簡単な方法もあります。
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