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ミュージックはあるが、ソングはない


「ミュージックはあるが、ソングはない」と言ったのは作詞家の阿久悠さんだった。今は言葉が死んでいるのかもしれない。

言葉が死んでいるとは、単に言葉の音が空虚になったということではない。
むしろ、言葉が持つ深層の意味、感情の繊細な表現が失われつつあるということだろう。

かつての歌は、人々の喜怒哀楽を映し出す鏡のようなものだった。恋の痛み、故郷への想い、社会への怒り、希望への祈り̶̶それらすべてが歌詞に込められていた。そう感じるのは昭和世代の悲しさか?(笑)

今、私たちの耳に届く音楽は、表面的で消費されることだけを目的としているように見える。
アルゴリズムが生み出す音楽、SNSで瞬間的な人気を得ることだけを狙った曲̶̶そこには本当の感情の深みがない。言葉は単なる音素材となりリズムだけに従属している。

阿久悠さんは、言葉に魂を吹き込む作詞家だった。
彼自身が「時代の飢餓感にボールを当てたい」と語ったように、歌詞は単なる言葉の羅列ではなく、社会の痛みや渇望を鋭く捉える武器だった。

「津軽海峡冬景色」「時の過ぎゆくままに」「もしもピアノが弾けたなら」などなど。
これらの歌謡曲は、単なる歌以上のものだった。
社会の空気、人間の繊細な感情、時代の息吹が言葉となって表現されていたのだ。

彼の「時代の飢餓感」という言葉は、深い意味を持つ。
それは、人々の内なる空虚感、社会の閉塞感、言葉では表現しきれない切実な渇望を指していた。阿久悠さんの歌詞は、まるでその飢餓感に的確に「ボールを当て」るように、聴く者の心の奥底に響いていたのである。

では、なぜ言葉が死につつあるのか。

一つには、コミュニケーション自体の変化がある。
SNSでは短文、絵文字、略語が主流となり、深い感情表現よりも、瞬間的で軽薄なコミュニケーションが好まれる。音楽も、その流れに呑み込まれているように見える。

また、音楽産業のシステムも大きく変わった。かつては、作詞家、作曲家、歌手が、一つの作品に魂を込めて向き合っていた。今は、商業的な成功を最優先し、感情の深さよりも、瞬間的な印象や踊りやすさが重視される。

しかし、すべてが失われたわけではない。
それでも、私は問い続ける。
2024年の流行語大賞さえも、もはやピンとこない。言葉の定義自体が、個人によって、コミュニティによって、刻一刻と変化している。かつてのような普遍的な感覚は失われ、断片化された感情の群れが、言葉の周りを彷徨っている。

現代の飢餓感とは何か。

それは、つながりへの渇望ではない。
むしろ、閉塞感と無力感だろう。個人が社会システムの歯車と化し、自分の意思や感情が完全に疎外されている現実。
政治も経済も、テクノロジーも、すべてが巨大な機械のように動き、人間は取り残されている。
若者たちの間に広がる諦念、未来への不安、そして何かを変えたいのにどうにもできない、その歯がゆさ。これこそが、今を生きる者たちの本当の飢餓感なのではないか。

誰かの心に響く、リアルな感情の痕跡。時代の裂け目を縫うような歌詞。
それは簡単には見つからない。
けれど、諦めることはできない。だからこそ、私はオリジナル曲を発表し続けたい。

言葉の可能性を信じて。

阿久悠さんが追い求めた、時代の本質を捉える仕事を、私なりのスタイルで続けていく。

言葉は死んでいない。ただ、眠っているだけなのかもしれない。

私の発展途上曲
「てぃんさぐになりたい」by ツカム

登って沈んで 花咲き枯れてく
繰り返しの中で
どれほどの 嬉しい悲しい
重ねてきただろう

あの日のあのこと どうでもいいこと
輝いて見えるね  
始まれば いつか終わること
わかっていたけど

サヨナラだよね 君はつぶやく
そっと閉じた瞳の奥で
てぃんさぐになりたい

JASRAC 755-1973-9


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