『スーツ=軍服!?』(改訂版)第49回
『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載49回 辻元よしふみ、辻元玲子
◆ナポレオンが持ち込んだカシミア、生地の宝石ビキューナ
冬物の衣料品を考えるとき、冬物の生地も大事な要素だ。
冬用の生地の筆頭といえばカシミアだが、近年まで高級素材の代名詞だった。中国で生産が拡大して、最近は手に入りやすくなった。
カシミアとは、インドとパキスタンの間の国境紛争が続いていることでも有名なカシミール地方の特産品で、この地で古くからカシミアヤギの毛をもとに生産され、インドではこれをストールとして身体に巻いていた。十八世紀末、ナポレオンがエジプト遠征した際に、インド産カシミアを入手した。これによりパリでは、カシミアの柔らかくて素晴らしい手触りがセンセーションを巻き起こしたのである。
生地の宝石として、カシミアをはるかにしのぐ超弩級素材がビキューナだろう。南米アンデス地方にのみ生息するアルパカの近縁種ビキューナの毛は、もっとも繊細な獣毛として知られ、一頭からとれる量はわずか三百グラム。よってお値段も破格で、ストール一枚で数十万円、ジャケットを仕立てるとなれば数百万円台に達することも。こうなるともはや家宝級である。
◆ツィードの名は書き間違いから?
冬物の素材といって、同じウール素材でもいろいろなものがある。普通の端正な直角方向に走る平織りのものと比べて、斜めに走る織り方なのが綾織りだ。冬物ではこの独特なラフ感のある綾織りのものがよく用いられる。
また、ウール生地には大別して、梳毛(そもう)糸と、紡毛(ぼうもう)糸という二種類の素材があり、前者は長い繊維なので丈夫できっちりした生地になる。後者は短い毛の混ざった素材で、もわっとした柔らかく温かい生地になる。ただそのために紡毛の生地はどうしても摩擦に弱い傾向がある。
綾織りで紡毛の生地こそが、いかにも冬物になるわけで、その代表格がツィード。スコットランドで古くから作られてきた独特のごわごわした手触りと抜群の温かさが、なんとも英国の田舎紳士の狩猟服を想起させる。
この素材は一九三〇年代、綾織り(ツイル)のスコットランドなまりを、生地を扱うクロンビー社の担当者が、スコットランド国境を流れるツィード川と勘違いして表記し、そのままこの名が定着してしまった、と言う。
中でも代表格はアウター・ヘブリディス諸島で生産されるハリス・ツィード。同諸島の中心ハリス島の領主だったダンモア伯爵夫人が、一八四六年の大飢饉の際、島の殖産興業を考え生産を奨励、ブランドが確立した。同諸島の中で作られたものだけがハリス・ツィードを名乗ることができ、専用ロゴマークを縫いつける。このロゴの使用が始まったのが一九一一年だった。
また綾織り生地の目をつめる縮絨(しゅくじゅう)を施すと、一層、冬物の感じになる。これを起毛させ、ぼわぼわっとした温かみを出したものがサキソニーと呼ばれる。ドイツのザクセン(英語でサクソン)王国が名産地だったための名前だ。
さらに起毛が強くなるとフランネルと呼ばれる。日本では「ネル」とか「フラノ」の通称で愛されてきた。サキソニーもフランネルも、冬物の高級スーツなどで用いられる。毛羽だったフェルト状の手触りが独特の質感を持っている。
フランネルは、十六世紀には英国のウェールズ地方で生産が始まっていた織物らしく、十七世紀にはフランネルの語が欧州各国で使われ始めているが、実は語源は不明である。本来はアウトドア用、カジュアル用の素材と思われていたが、名優フレッド・アステアがホワイト・フランネルのスーツを愛用して有名になり、スーツ生地としても人気が出た。実は二十世紀の前半まで、ホワイト・フランネルは夏物の生地と思われていた。見た目は確かにさわやかな感じもあるのだが、間違いなく暑苦しかったはずである。
フランネルなどの生地をうまく毛羽立たせ起毛するには、伝統的な手法ではアザミの実のトゲで引っ掻く。今でも、高級な生地ではアザミを用いている。
さらに強く目をつめて、書道の下敷き用フェルトのような紡毛素材がメルトンだ。コートの素材として多く使われる。このメルトン生地で古くから知られるのが、先述のクロンビー社。ナポレオン戦争さなかの一八〇五年創業で、英軍の軍服に生地を卸して成長。アメリカ南北戦争では南軍の灰色の軍服を提供したことで知られる。一八五二年にチェスターフィールド伯爵が注文した最初のチェスターフィールド・コートもここのメルトン生地。さらに長崎のグラバー亭で知られるトーマス・グラバーが、戊辰戦争の日本で同社の生地を扱い、官軍士官の軍服に用いられたと言う。
二度の世界大戦でもクロンビーのコートが英軍で採用され、チャーチル首相やアイゼンハワー、ケネディといった米大統領も愛用。権威ある英語辞典ではCrombieはウールコートの代名詞とされている。本場の「ブリティッシュ・ウォーム」を試したい方にはお薦めである。