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『スーツ=軍服⁉』(改訂版)第66回

『スーツ=軍服⁉』(改訂版)連載66回 辻元よしふみ、辻元玲子

水玉とは「ポルカ・ドット」

しばらく余談的に黒い服の話題が続いたが、そろそろネクタイの話、それも「水玉ネクタイ」の話に戻ろう。なぜ、ネクタイの水玉柄は格式が高いとされるのか。
由緒ある模様で格が高い、とファッション本にはよく書いてあるがそれは何故か。少なくとも、古く遡って中世や近世の時代に特別に水玉模様の格が高かったとは思えない。昔の貴族の肖像など見てもとんと水玉など身につけていない。ただ、貂(てん)の毛皮の襟巻が、高貴な人の証しだった時代が欧州では長かった。これは水玉様の柄だから、投影している可能性はあるのかもしれない。
そもそも水玉模様を調べようとしてpin dot tieなどとコンピューターで検索してもあんまり引っかからない。というか、英語のサイトで水玉を調べたければ断然polka dot と入力するべきである。つまり「ポルカ・ドット」という言い方のほうが幅をきかしている。日本でもこういう言い方はあるけれど、あまり日常では使わない。
ポルカというのは、十九世紀前半にチェコの民謡をもとにボヘミア(チェコ中部)で流行りはじめた音楽で、あのヨハン・シュトラウス親子がヒットさせた。ヨハン・シュトラウス一世は一八四九年に亡くなっており、それ以前にはすでに流行音楽だったものだ。語源のpulkaはチェコ語ではhalfの意味で、半拍子のリズムだから、という。
ちょうどその時期、今の背広が成立し今のようなネクタイが出来上がるころ、たまたま水玉模様が社交界で流行したらしい。主に競馬場で用いるアスコット・タイの柄に、これが好まれたようである。誰がいつ、はやらせたのか皆目わからないのだが、ともかくその大流行のポルカ音楽と、流行中の水玉模様をくっつけて、いつの間にか「ポルカ・ドット」と呼ぶようになったというのだから驚きではある。あの水玉模様は、音楽とも、ましてチェコとも、本来はなんのかかわりもないらしい。
ということで、十九世紀の後半、ポルカの流行のころに水玉模様も市民権を得て、二十世紀にさしかかるころには、当時の外交官などの礼装であるフロックコートやモーニング用のアスコット・タイの柄も水玉が定番となり、第一次大戦ごろまで続いたらしい。
第二次大戦に近い一九三〇年代には、フロックコートは廃れてしまい、よほどの儀礼でない燕尾服やモーニングなども着ず、外交官も背広でOKという時代になった。しかしその中で、ちょっと古い時代の水玉のアスコットの記憶が、フォーマルなネクタイの柄として残り、今日に至っているわけである。
つまり、十九世紀の一時的流行だったものが、たまたま外交官の定番の柄となり、今でも他の柄よりは格が高い、ということになっているのである。

⑤ペイズリー、チェック、ストライプ―その他の柄の話

中東からインドを経て―ペイズリー

ネクタイにしろ、スーツの生地にしろ、最もフォーマルで無難な柄といえば無地なのは必定だが、近年は男女を問わず、大胆な色柄のファッションが流行再燃している。
ストールやネクタイの柄としておなじみのペイズリー柄は、日本では古墳の出土品に似ているので「勾玉模様」などと言う。
この図案は二~六世紀、ササン朝ペルシャ(今のイラン)が起源といい、イトスギの花や葉を元にした宗教的な図柄だったとか。この模様はその後、インドにもたらされてカシミール地方特産のストールの柄に用いられた。十七世紀、インドに進出した英国東インド会社によってこの模様が欧州に到達し、十九世紀には、当時、織物産業で栄えたスコットランドのペイズリー市で大量生産され、ペイズリー柄と呼ばれるようになり大流行した。
ところが二十世紀に入るとこの柄は欧米では一旦、忘れられてしまう。一九六〇年代後半に、インドに憧れるエリック・クラプトンやビートルズの面々などサイケデリック・ロックのミュージシャンたちがこれを復活させたが、短期間のキワモノ的流行で終わった。
この柄を現代に蘇らせたのがイタリアのジンモ・エトロで、繊維素材ブランド「エトロ」社を興した。特にジンモは、祖母が愛用していた肩掛けショールの柄の美しさに魅了されたという。それは当時、忘れられかけていた十九世紀のペイズリー柄で、彼は古い柄を元に斬新な新ペイズリーを開発し、八〇年代に大々的なペイズリー・コレクションを発表。世界的な大流行を起こした。日本でもこの時期に「勾玉模様」ブームが到来したのだった。


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